出撃するか?信長を待つか?決断を迫られた徳川家康の「長篠の戦い」
徳川家康の「真実」⑱
織田・徳川軍と武田軍が激突した長篠の戦い。徳川家康は本戦がはじまる前、いくつかの選択に直面していた。
■徳川方にとって難攻不落の長篠城は反面、逃げ場がない

長篠城
豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)との合流点近くに立つ、信濃国と三河国の間の重要な戦略拠点であった。
長篠城(ながしのじょう)のある奥三河は、亀山城の奥平氏、長篠城の菅沼(すがぬま)氏、田峯(だみね)城の菅沼氏の3家が割拠し、俗に「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)」とよばれている。武田信玄は、西上の直前、これら山家三方衆を家康から離反させていた。長篠城は、家康の領国である三河と遠江のどちらも押さえることができる要衝(ようしょう)だったためである。家康にとっては、打ち込まれた楔くさびのような存在になっていたのだった。
天正元年(1573)4月に西上の途中で武田信玄が陣没すると、家康は長篠城の奪還に乗り出していく。そして、武田方に転じていた亀山城の奥平貞能(さだよし/定能)・信昌(貞昌/さだまさ)父子を味方につけると、武田方の長篠城と田峯城を攻略したのである。
こうしたなか、武田信玄の跡を継いだ勝頼は、天正3年4月、自ら1万5000余といわれる大軍を率いて三河に侵入し、5月には長篠城を包囲した。家康に攻略された長篠城を奪還するためである。長篠城を奪われたままにしておけば、信玄が領国に組み込んだ奥三河を失うことになりかねなかった。
武田軍は、長篠城を見おろす医王寺山に本陣を構えたとみられる。このとき長篠城を守っていたのは、武田方から徳川方に寝返ったばかりの奥平信昌である。そこに、家康から松平(五井)景忠(かげただ)・伊昌(これまさ)父子が援軍として派遣されていた。それでも、長篠城の城兵は500人ほどしかいなかったという。
武田軍による攻撃は、5月1日から開始された。長篠城は、豊川の上流にあたる豊川(寒狭川)と宇連川(大野川)の合流地点に築かれた要害である。城の2辺はこれらの川に面しており、しかも川幅は60~100メートル、水面までの高さは30~50メートルもある。敵を寄せ付けない一方、大軍で包囲されたら逃げ場はない。なにしろ、兵力差は1万4500もあった。しかも、豊川や宇連川の対岸にも武田軍は陣を構築しており、脱出することもできなかったのである。
そこで、信昌は家康に信長へ援軍の要請をするよう使者を遣わした。援軍を要請した使者といえば、帰城時に捕まって武田軍に磔(はりつけ)にされた鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が有名であるが、それまでにも使者は何人か派遣されており、鳥居強右衛門は、援軍が来るのかどうか、また来るとしたらいつになるのかを確認しようとしたのだろう。
長篠城からは、落城は必至との状況も伝えられており、家康はすぐに決断しなければならなかった。このとき、家康が取り得る選択肢は、そう多くはない。まずは、一刻を争うため、徳川軍だけでも出陣することである。あるいは、少し時間はかかるが、織田軍の救援を待ってから出陣するのも選択肢のひとつである。ただし、救援はせずに長篠城は見捨て、野田城あたりで武田軍を迎え撃つ選択肢もあった。以上は、武田軍と戦う想定であるが、信長との同盟は破棄して武田勝頼と和睦するという選択も議論はされたのではなかろうか。
監修・文/小和田泰経
(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より)