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「まことの勇将」と徳川家康も評価した才気あふれる嫡男『松平信康』の実像

徳川家康の「真実」⑱


徳川家康の嫡男として生まれた松平信康。徳川家の跡取りとして嘱望されながら育てられたものの、悲運な最期と遂げた人物であった。その実像はあまり知られていないが、果たしていかなるものだったのだろうか。


 

■その死を家康がのちに惜しんだ勇将

 

松平信康の菩提寺・清瀧寺
徳川家康は信康のため、浜松に清瀧寺を建立。信康の位牌のほか、本堂内には、家康の木像や徳川家歴代将軍の位牌が安置されている。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原合戦当日、徳川家康は「さてさて歳老いて骨の折るる事かな。倅が居たらば、これ程にはあるまじ」と20年以上前の天正7年(1579)に死なせた長男・松平信康(まつだいらのぶやす)を偲(しの)んで愚痴をこぼしたという(『徳川実紀』)。

 

 家康が惜しんだ信康は、永禄2年(1559)に生まれた。母の築山殿(つきやまどの)は今川一門の出であり、信康は家康が駿府で過ごしていた17歳の折りの子である。元亀元年(1570)に岡崎城主となり天正元年に初陣を経験して以来、武田軍との戦いに従事し、天正3年の長篠(ながしの)にも一手の将として参加、その後の対陣でも家康に殿を志願して譲らず、見事武田軍に付け入る隙を与えなかった為に、家康から「まことの勇将なり。勝頼たとえ10万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず」(『大三川志』)と驚嘆された。

 

 他にも彼の勇敢さを物語る逸話は多く、なるほど信康は生きていれば42歳。円熟の勇将として家康が陣頭指揮を任せた事は間違いない。合戦未経験だった弟の徳川秀忠(とくがわひでただ)や松平忠吉(まつだいらただよし)とは違う。

 

長篠・設楽原合戦古戦場
設楽原の馬防柵。信康は長篠・設楽原合戦において大きな戦功をあげたとされる。またこのほかの武田家との戦いにおいても軍功をあげ、その勇猛さが注目されていたという。

 

監修・文/橋場日月

歴史人2022年8月号『徳川家康 天下人への決断』より

 

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