悲惨な死に方をした柴田勝家は、秀吉を恨んだのか?【命日・6月14日】
日本史あやしい話5
■十文字に腹を裂き、五臓六腑をつかみ出す
たしかに、勝家の死に様は極めて苛烈であった。秀吉との「賤ヶ岳の戦い」に敗れて北ノ庄城へと立て篭もった勝家。さらに秀吉勢に追い詰められたところで、もはやこれまでと、妻・お市の方ばかりか、一族子女をも次々と刺し殺して自害。
切腹の仕方についても、なんとも凄まじい話が伝わる。左の脇腹に刀を突き立てるや否や、一気に右脇まで一直線に引き割き、さらに返す刀で胸から臍(へそ)まで縦に割いたというから恐れ入る。そればかりか、五臓六腑を掴み取ってこれを掻き出したというから驚くほかない。
その後、介錯にあたった中村聞荷斎(ぶんかさい)が火薬に火を点けて、勝家の遺骸もろとも吹き飛ばしてしまったという、実に豪快な話である。この勝家の凄まじい死の情景から鑑みれば、自らを死に追いやった秀吉を憎みに憎んで死んでいったと思われても無理のない話だろう。
しかし、もう一度勝家の生前の動向を振り返っていただきたい。賤ヶ岳の戦いに敗れた根本的な原因が前田利家の離反であったことは間違いなさそうだが、勝家が利家を責めることはなかった。そればかりか、利家のことを慮って、秀吉に投降することまで勧めているのである。
死に臨んだ際にも、妻・お市の方ばかりか、臣下にまで生き延びるよう諭したと言われる。残念ながら彼らはことごとく勝家の要求をはね退け、追随することになってしまうが、勝家は苦境に立たされても人への思いやりを忘れなかったのである。「裏切られても憎まず」といったその性格から鑑みれば、勝家が、恨み辛みを抱いて化けて出るなど考えられない。
■秀吉を恨んだのは勝家ではなく、後世の人々だった?
では、なぜ勝家が亡霊となって現れたと言い伝えられたのか? ここでまず思い起こすべきは、亡霊のあるべき姿だろう。今一度、思い返していただきたい。亡霊なるものがなぜ出現するのか、ということを。
本来亡霊とは、心にやましいところがある者が見るものである。北ノ庄城周辺の人々にとって勝家とは、敬愛すべき存在だったはず。にもかかわらず、人々がその亡霊を勝家だと思い込んで恐れたのはなぜか?
秀吉を憎んでいたのは、勝家というよりも、むしろ敬愛する勝家を死に追いやられた当地の人々だったのではないだろうか。人々が秀吉を恨み、思いあまって、勝家もまた秀吉を恨んだことにしてしまった。挙句、「勝家が恨んで化けて出る」という話をつくってしまった。
そして、勝家を亡霊に仕立て上げてしまった申し訳なさ、やましさを持つうちに、本当に恐ろしい亡霊が出るようになった。しかし、勝家の顔を見るのが申し訳なく、武者の首を見ることはできなかった……。亡霊が本当にあるとすれば、それが「首なし武者行列」の真相なのではないかと筆者は考えている。
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