宗教家でありながら徳川家康政治の黒幕、宗教ブレーン「南光坊 天海」とは?
「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第10回】
家康のブレーンには天海をはじめ多くの僧侶が存在した。彼らは家康のライバルであった大名、天皇家、朝廷との外交で活躍し、徳川家を有利な状況に導いた。謎多き南光坊天海(なんこうぼうてんかい)の実像とその活躍を解き明かしていく。

写真は徳川家ゆかりの天台宗の古刹(こさつ)・喜多院山門前にある天海大僧正の立像。同寺院には木造天海僧正坐像(もくぞうてんかいそうじょうざぞう)もある。
家康(いえやす)には、2人の「黒衣の宰相(こくえのさいしょう)」がいた。これは「僧侶(姿)の大臣」という意味でもある。1人は南光坊天海(比叡山東塔・南光坊に住んでいたための肩書)であり、もう1人が金地院崇伝(こんちいんすうでん)である。
2人のうち天海僧正(てんかいそうじょう)は、家康から「人中の仏なり」とまで言われ、尊敬された人物であったが、様々な伝説に包まれ、謎の多い人物でもある。天海は、家康ばかりか秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)まで徳川3代に渡る徳川草創期の将軍が「師僧」としてあがめている。だが、分かっていることは寛永20年(1643)に死亡したという事実だけである。
その死亡年齢も85歳から125歳まであり、通説では108歳とされている。これでも信じられない長生きであるが、とにかく生年が不詳、出自(生まれ)も不詳。諸説があり、会津・蘆名(あしな)家の出身、足利11代将軍・義澄(よしずみ)の子、あるいは古河公方・足利高基(たかもと)の子、などともいわれ、最も奇妙な説は「天海こそ、本能寺で信長を倒した明智光秀(あけちみつひで)が生き延びた仮の姿」というものであろう。
他にも天海伝説はある。若い頃に、信玄と謙信が戦った川中島合戦を現地で目撃している、と自身が語ったことがあるというのだ。家康周辺の人物で、魅力的な伝説をいくつも持っているのが天海僧正ということになる。
天海は、11歳で出家し18歳で比叡山に上り、天台教学を学び、さらに圓城寺や興福寺でも学んだとされる。ただ天海自身は、出自や年齢などを尋ねられると「一度仏門に入った身には過去など無用のこと」として、決して自分自身について語ることはなかった。
記録によれば、家康との出会いは慶長15年(1610)、駿府でのことであった。天海は武藏国入間郡仙波(むさしのくにいるまぐんせんば)にある無量寿寺(むりょうじゅじ/後の喜多院)住職であった。その後、家康は天海の智恵を様々な方策に使った。例えば、豊臣家が持っている金銀を使わせるために、信長によって焼失していた比叡山の再建や方光寺の再建などを仕向けている。
関ヶ原合戦で勝利し、征夷大将軍になった家康には、大坂・豊臣家の存在は危険なままであった。いずれ豊臣家との手切れを予想した家康は、天海から秘策を授けられる。江戸・上野の忍ヶ岡(しのぶがおか)に輪王寺を建立することだった。
「この寺に宮様を1人、朝廷から招いて法親王として置きなさい。もし不幸にして東西が手切れになった時に朝廷が豊臣に味方をしたら、この輪王寺の法親王を押し立てて天皇とすればよいのです。昔の南北朝の如くに東西朝としてその東朝をもって臨めば少なくとも天皇への反逆者にならずにすみます」。
こんな大胆な発想をする側近は、家康にはいない。これ以後、家康はますます天海僧正の大ファンになり、重用するようになった。寛永寺の建立は家光の時代になってからだが、幕末・維新まで「天台宗の本山」として君臨した。天海の喜多院は後に10万石の朱印を与えられる。
元和2年(1616)4月、家康が病死すると遺体は駿河・久能山(くのうざん)に移された。その後、日光・東照宮に改葬されるが、この際に金地院崇伝との激しい論争は、天海が勝利する。
寛永20年に死亡した天海には、朝廷から「慈眼大師」の称号が贈られた。