徳川家康の嫡男・松平信康と正室・築山殿の死にまつわる謎が残る3つの通説
徳川家康の「真実」⑲
徳川家康は天正7年(1579年)に正室・築山殿と嫡男・松平信康の死に向き合っている。この死にはさまざまな謎があったという。
■家康の「家族の処刑」という過酷な出来事にまつわる謎

信康廟(清龍寺)
松平信康を供養するために徳川家康によって建立、信康廟所がある。二俣城の復元井楼がある。
徳川家康の嫡男・松平信康(まつだいらのぶやす)は21歳の若さで死ななければならなかった。しかも母の築山殿(つきやまどの)と相前後してという異常な状況の中で、だ。その原因については通説がいくつかある。
(一)築山殿(家康正室、信康の母)の甲斐・武田家内応と信康の加担を咎めた織
田信長(おだのぶなが)の命令による
(二)信長による信忠(のぶただ/信長嫡男)のライバルの排除
(三)秀忠派の家臣による信康排除
これをさらに潤色(じゅんしょく)する形で「信康が正室・お五徳の侍女である小侍従を斬り、口を手で裂いた」「僧侶を馬でひきずって殺した」「少しでも意に背く者があればたちまち手討ちにした」などとも伝わっているが、すべて根拠は無い。江戸幕府の御用史家たちが息子を死なせた家康を弁護するため、ことさらに信康を貶(おとし)めただけだ。
一次史料として確認できるのは、後年の家康が「(讒言によって)父子の仲平たいらならざりし」と後悔していた事、秀忠の妻・お江与(えよ)に対して「(信康を)気儘に育て(中略)、後には親子の争ひの様になり候て、毎度申し候ても聞入れず」却って親を恨む様になった、と評するように、浜松・岡崎と離れて住まう父子が、周囲の人間の影響もあってわがまま気味に育った信康との関係が悪くなったという事。だが信康の場合は、やはり「武田家内応」が命取りとなったようだ。
と言っても、信康自身や築山殿が首謀者という訳では無い。事件の際、信康を支える岡崎の徳川家臣団の多くが粛清・追放されている所を見ると、天正2年に発生した大賀弥四郎(おおがやしろう)事件(岡崎の高級官僚だった弥四郎が武田方に内通し武田軍を岡崎城へ引き入れようとしたが未遂に終わる)の様に岡崎家臣団中の家康に対する不満分子が信康を担いで何らかの行動に出ようという兆候はあったのだろう。
これに信康の正室・五徳(ごとく/徳姫)の問題も絡んでくる。夫婦の仲が悪いため彼女が信長に十二カ条からなる信康とその母・築山殿の弾劾状を送ったというが、その実物は無く内容も完全には伝わらない。
ただ、比較的信用できる『前田本安土日記』は「逆心の雑説」があった為に徳川側から信長へ信康の処分を上申して来たとしているのは確かだ。この時期信長は「雑説」を気にしてか毎年鷹狩りの名目で三河に赴おもむいていたのだが、事件以後は足を向けていないのも何かを暗示している気がする。

二俣城天守址
最終的に二俣城に移送された信康は、この地で切腹を果たす。享年21歳だった。
監修・文/橋場日月