戦国時代の‟戦被害の避け方”~神官・吉田兼見に学ぶ~
戦国時代の裏側をのぞく ~とある神官の日記『兼見卿記』より~
戦国時代の神官・吉田兼見(よしだかねみ)の日記『兼見卿記』(かねみきょうき)から、当時の知られざる日常をご紹介する当連載。今回は、戦の危機が迫る京都で、被害から逃れようと奔走する兼見の様子をのぞいてみましょう。
■都に迫る戦の気配
戦争は一般民衆に多くの被害を及ぼします。民衆はその被害を避けるため、祖国を離れ難民となるなど苦渋の決断を迫られることになります。ロシアによるウクライナ侵攻(2022年2月~)でも、沢山のウクライナの人々が祖国をあとにしました。では、戦にさらされる危険性が現代日本より高かった戦国時代の人々は、戦による被害をどのように回避しようとしたのでしょうか?お馴染み、戦国時代の公卿で神道家の吉田兼見の日記『兼見卿記』からその事を見ていきたいと思います。
元亀元年(1570)9月17日、『兼見卿記』には「越前軍勢入洛(じゅらく)の沙汰」がたびたびあったと記されています。「越前軍勢」というのは、越前国(今の福井県)の大名・朝倉義景(あさくらよしかげ)の軍勢を指します。朝倉の軍勢が都に乱入するとの噂がしきりにあったということです。実は同年6月、織田信長(おだのぶなが)・徳川家康(とくがわいえやす)連合軍と朝倉・浅井長政(あざいながまさ)連合軍は姉川で激突(姉川の戦い)し、織田方が勝利していました。
それから約3ヶ月後の9月16日。朝倉・浅井の軍勢3万が大津坂本口に攻め寄せてくるのです。信長の家臣・太田牛一(おおたぎゅういち)が記した『信長公記』(しんちょうこうき)にその事が書かれています。越前の軍勢が都に入ってくるのではとの風聞がしきりに流れていたのも頷けます。忍び寄る戦の危機。この時、兼見が取った行動は「道具」(家財道具か)を預けることでした。朝倉らの軍勢は、9月21日には、醍醐・山科を焼き払い、都に迫ります。が、信長が大坂方面より舞い戻ってくると、朝倉方は比叡山に退却していくのです。兼見としてはホッと一安心というところでしょうか。
■いよいよ戦か…?どうする吉田兼見
ところが、天正元年(1573)3月にも、洛中・洛外が物騒になる事態が生じます。室町幕府の15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)は、信長に敵対することを既に決意。それに伴い、3月25日には、信長が入洛するために出馬します(『信長公記』)。都を舞台にいよいよ戦かと考えられていた3月29日、兼見の日記には、都の人々が禁裏(皇居)の築地の内に「小屋」を建て、避難していたことが見えます。また、吉田神社がある吉田郷にも、近隣から「男女」が逃げ入ってくるという混乱状態でした。危害を避けるため、兼見は「両門」を堅く警護するよう命じています。

兼見も本当はこう言いたかったのでは…?(イラスト/nene)
それでも心配だったのでしょう。兼見は織田重臣・柴田勝家(しばたかついえ)にも吉田郷の「警固」を依頼しています。柴田方からは「両人」が来て、門を警護してくれました。また、信長からは吉田郷に「陣取」(陣を置くこと)することを禁じる旨が出されます。そのことは、明智光秀(あけちみつひで)の家臣・山岡景佐(やまおかかげすけ)が兼見に伝えてくれました。景佐は同時に「早々に御礼を」ということも兼見に述べます。よって兼見は景佐とともに「本陣」に向かい、信長と対面するのでした。もちろん、手ぶらというわけではなく「銀子一枚」を兼見は持参しています。兼見としては銀子一枚で、吉田郷や身の安全が保たれるならば、安いものだという想いだったでしょう。
さて、信長軍は将軍・義昭が籠る二条城を包囲し、上京に放火(4月4日)することになるのですが、それにより、多くの邸宅が燃えてしまいます。その中には、公卿・飛鳥井雅教(あすかいまさはる)の邸も含まれていました。困った雅教は、吉田郷に「借屋」したいと兼見に申し入れてきますが(4月10日)、空家はなく、兼見は申し出を断るしかありませんでした。一歩間違えれば、兼見がそうした事態に陥っていたとしてもおかしくありませんが、兼見は最悪の事態を避けようと懸命に奔走していたのです。