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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

名古屋を誕生させた家康の〝清須越〞 ─日本史上最大の引っ越し! 遷府された尾張の中心─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅⑥

名古屋は江戸時代初めにできた新しい町だ。徳川家康の意思により、それまでの尾張の中心地であった清須より、現在の名古屋に移転し、出来上がった。この大プロジェクトを〝清須越〟と呼んだ。

築城図屏風築城の様子を描いた屏風図。家康が隠居後に過ごした駿府城の築城の様子とも、名古屋城を築城している様子とも伝わる。
名古屋市博物館蔵

■徳川政権が創り上げた新都市・尾張の名古屋

 尾張(おわり)の中心は、古来、清須(きよす)だった。戦国時代には守護所も清洲城におかれている。那古野(なごや)城を居城としていた織田信長(おだのぶなが)も、主家にあたる守護代・織田信友(のぶとも)を追放すると、自ら清洲城に入り、小牧(こまき)に居城を移すまで、尾張平定の拠点としていた。本能寺の変後、清洲城は信長の次男・信雄(のぶかつ)の支城となり、信雄が豊臣秀吉(とよとみひでよし)に改易されると福島正則(ふくしままさのり)が入った。そして、関ヶ原(せきがはら)の戦い後に正則が広島に転封されると、徳川家康(とくがわいえやす)の四男・松平忠吉(まつだいらただよし)が城主となっている。
 松平忠吉が早世したのち、家康は尾張62万石を九男・義直(よしなお)に与えた。慶長(けいちょう)14年(1609)、義直をともなって清洲城に入った家康は、名古屋に居城を移転することを明らかにした。天下普請と称して西国大名を動員した工事により、早くも翌慶長15年には城の中枢は完成したという。
 名古屋城下の町割も実施され、清須に居住していた尾張藩士や町人だけでなく、寺社までもが名古屋に移されることになった。これがいわゆる「清須越(きよすごし)」である。
 名古屋は、かつて信長が居城としていた那古野城の故地(こち)である。信長が清洲城に移ってからは廃城となっていた。そのような場所に、新規築城を家康に建言したのは、義直の傳役(もりやく)となっていた山下氏勝(やましたうじかつ)であったという。清洲城を廃城とする理由は、低湿で、水害の危険があったからというものだった。清洲城は、五条(ごじょう)川を天然の堀とする平城である。城は微高地に築かれていたものの、広大な城下町を整備しようとすれば、城下に水害が及ぶ危険は十分にあった。移転先の候補としては、那古野・古渡(ふるわたり)・小牧が挙げられており、そのうちの那古野に、名古屋城を築くことが決まったのである。
 清須越によって、名古屋が発展する一方、清須はさびれていき、「おもいがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」と謳われた。

名古屋城
今もなお名古屋の中心としてそびえる名古屋城。金鯱でも知られ、現在も日本を代表する城郭である。

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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