豊臣秀吉が生まれ育った名古屋 ─史上最大の出世人が愛した地─
名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅④
農民出身で〝猿〟と揶揄されたひとりの男は幾多の伝説と手柄を重ね、やがて天下人へと駆け上がった。日本史上でも類を見ない異例の出世を成し遂げた豊臣秀吉。彼を生み、育んだ地・名古屋との深い関わりについて迫る。

名古屋中村区・常泉寺に立つ秀吉公像

秀吉誕生秀吉誕生の場面。日輪が体内に入る夢を母親が見たという逸話が残る。
『絵本太閤記』国文学研究資料館蔵
■天下人・秀吉の出自は伝説と謎が多い!
秀吉の出自については、確かなことは全くわからない。生まれた場所についても、尾張国愛知郡の中村とされるが、厳密な場所については諸説ある。名古屋市中村区の中村公園には、「豊公誕生之地(ほうこうたんじょうのち)」碑が立てられており、ここが有力な出生地のひとつとなっている。ただし、この中村公園のすぐ東隣に位置する日蓮宗の常泉寺(じょうせんじ)も、秀吉の出生地とされ、境内には秀吉が植えたと伝わる「御手植の柊」や産湯の井戸などが残る。

豊公誕生之地の碑明治時代に建てられたもの。碑の西側には秀吉を祀る豊國神社が創建されている。
ちなみに、中村は厳密には上中村・中中村・下中村に分かれていて、このあたりは上中村にあたる。ところが、江戸時代初期に成立した『太閤素性記(たいこうそせいき)』によれば、秀吉の出身地は中中村とされている。ここは現在の名古屋市中村区中村中町あたりということになり、中村公園からは少し離れている。

下中八幡宮母の大政所が安産を祈願したといわれる神社。平安時代の豪将・源為朝が創建したとも伝わる。
写真/大田政行
秀吉の父の名は弥右衛門とされ、一般的に「木下弥右衛門(きのしたやえもん)」として知られている。しかし、当時の農民は、苗字をもつ半農半士の身分と、苗字を持たない身分に分かれていた。「木下」姓が秀吉の妻の実家にゆかりのある姓であることを考えると、秀吉の父は苗字を持っていなかった可能性が高い。なお、秀吉に仕えた竹中重治(たけなかしげはる)の子・重門(しげかど)が著した『豊鑑(とよかがみ)』に「あやしの子」と書かれていることから最下層民であったとの説もあるが、「あやし」というのは、はっきりとしないという意味で使われていると理解すべきだろう。つまり、当時からすでに、秀吉の出自は謎だったことになる。

日吉丸となかまたち秀吉が育った場所とされる中村公園内に立つ銅像。わんぱくだったころの姿をイメージし、元名古屋
造形芸術大学学長・石黒鏘二氏らによって制作された。
【秀吉誕生地周辺の地図】