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侠客の武勇譚と共助力~岡っ引きに人の道を説き聞かせて追い返した忠治の“女”

江戸の世を沸かせた侠客の武勇譚と共助力・第3回

国定忠治をめぐる女たち

忠次(忠治)の妾・お徳がモデルとされるお万が登場。歌舞伎『上州織侠客大縞』豊原国周筆 都立中央図書館蔵

 忠治が女房のお鶴を迎えたのは天保3年(1832)、13歳のときのことだ。

 

 お鶴は今井村 (群馬県伊勢崎市赤堀今井町)の農家桐生家の嫁で、忠治の2歳年上。育ちがよく、慎ましい女性だった。

 

 忠治がなぜ、お鶴を女房にしたのか。よくわからない。やがて賭博稼業に熱中するようになると、住む世界が違うし、お鶴を避けるようになったともいわれる。あるいはお鶴の生家に禍が及ぶのを恐れたのかもしれない。

お鶴が「忠次(忠治)の妻・とよ」と書かれており、諸説ある『絵入国定忠治実伝』/国立国会図書館蔵

 その後、忠治はお町とお徳を妾(めかけ)にしている。

 

 お町を妾にしたのは天保7年ごろのこと。田部井(ためがい)村(伊勢崎市田部井)に住む尾内市太夫の娘だったが、隣村に嫁いだものの出戻ったところ、忠治が妾にしたのだという。18歳くらいの美人だった。

 

 忠治は天保13年(1842)、三室(みむろ)の勘助と争いがあり、子分の浅次郎(板割の浅太郎)に命じて、伯父の勘助を殺害させた。勘助は関東取締役の手助(てだすかり)となり、目明し(道案内とも呼ばれた)をつとめていた。 関東取締役は水戸家領を除く関八州の天領・私領を区別なく巡回し、治安の維持や犯罪、風俗の取り締まりなども行っていた。そのため忠治は、信州路や隠れやすい赤城周辺 などに潜伏する。

 

 弘化3年(1846)、37歳の時とき、赤城山へ戻り、31歳のお徳を妾にしている。子分の千代松の後妻だったが、千代松は死亡。そのあとふたりの仲が深まったらしい。

 

 あるとき、岡っ引きがお徳の家に押しかけ、「忠治御用!」と声を荒らげて踏み込んできた。忠治は不在だったが、お徳は岡っ引きを押さえつけて逆にののしった。

 

 岡っ引きとはいえ、二足の草鞋(わらじ)をはく稼業だし、必ずしも正義の味方とはいえない。

 

 そんな相手をお徳はののしり、人の道を説き聞かせて追い返したのである。

(次回に続く)

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中江克己なかえかつみ

北海道函館市生まれ。河出書房などの編集者を経て歴史作家に。著書は『大江戸〈奇人変人〉かわら版』(新潮文庫)、『忠臣蔵と元禄時代』(中公文庫)、『お江戸の意外なモノの値段』(PHP文庫)、『日本史の中の女性逸話事典』(東京堂出版)など多数。

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