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侠客の武勇譚と共助力~21歳で親分になった国定忠治、その実像を上州赤城山で探る

江戸の世を沸かせた侠客の武勇譚と共助力・第2回

天保4年(1833年)からの大飢饉に民衆が求めたもの

才智や胆力のある男として描かれる国定忠次(忠治)。「国定忠治実伝」初編上 大西庄之助 編/国立国会図書館蔵

「博徒のなかの博徒」といわれたほどの男っぷりで有名な国定忠治。芝居や講談、映画

などでは義理人情にあつく、才智や胆力のある男として描かれることが多い。

 

 天保4(1833)から7年にかけて深刻な大飢饉が広がり、餓死者が続出した。

 

 国定忠治は飢饉で苦しむ農民たちの姿を見て、悪代宮を叩き斬り、農民たちを救ったという話もあるが、いくら義憤に駆られたとはいえ、そこまではしないと思われる。これはあくまでつくり話だったようだ。

 

 しかも、忠治は貧農の子とされるが、実際は違っていた。

 

 文化7年(1810)上野の国佐井(さい)郡国定村で生まれたが、生家は富農だった。名主か庄屋のような家柄だった、と考えられている。先祖は武士ともいわれ、本名は長岡忠次郎という。

 

現代でいうと半グレか?その仕切り力から若くして博徒の縄張りを譲り受ける

 

 忠治は21歳のとき、博徒の縄張りを譲り受け、博徒の親分となった。

 

 それなりに才智と行動力があったから、博徒の世界では伸し上がることができたのだ。しかし……。

 

 天保5年(1834)には、賭場で島村の伊三郎と口論になり、あげ句の果てに相手を殺してしまう。

 

道端で相手と喧嘩をする忠次。「絵入国定忠治実記」金泉堂/国立国会図書館蔵

 凶状持ちとなった忠治は大前田の英五郎に身を寄せたものの、結局は逮捕され、佐渡送りになる。

しかし、まもなく脱出、故郷に舞い戻った。

 

 その後はさまざまな喧嘩の仲裁を行い、謝礼として関東各地に縄張りをもらって勢力を広げていった。

 

 そうした一方、天保7年(1836)、干魃(かんばつ)で苦しむ村を救ったのである。こうして忠治は、やがて赤城山一帯に勢力を張るまでになった。

 

 当時、忠治の元には日光の円蔵ら多くの子分が集まっていたから国定一家の勢力は実に大きかった。

(次回に続く)

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中江克己なかえかつみ

北海道函館市生まれ。河出書房などの編集者を経て歴史作家に。著書は『大江戸〈奇人変人〉かわら版』(新潮文庫)、『忠臣蔵と元禄時代』(中公文庫)、『お江戸の意外なモノの値段』(PHP文庫)、『日本史の中の女性逸話事典』(東京堂出版)など多数。

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