男色専門の男娼「陰間」のお仕事 第5回~陰間茶屋に売られた少年たちの悲哀~
江戸の性職業 #022
■副業で体を売っていた若手の歌舞伎役者

図1『女貞訓下所文庫』(月岡雪鼎、明和5年頃)国際日本文化研究センター蔵
若手の歌舞伎役者は、副業で陰間をすることが多かった。こうした役者の陰間を、舞台子(ぶたいこ)といった。
図1は画中に「舞台子の図」と記されている。
現在でも、舞台だけでは生活できないため、各種のアルバイトをしている役者は珍しくない。
江戸の役者はアルバイトで、舞台子というセックスワーカーをしていたと言ってもよかろう。
『男色大鑑』(井原西鶴著、貞享4年)に、大坂の歌舞伎界の状況として――
とかく合点する夜の客さえあれば、質は置かずに年はとるなり。
――とある。
華やかな世界であっても、貧乏な若い役者はたくさんいた。だが、そんな役者でも舞台子として金持ちの男をつかめば、質屋通いをしなくても安心して年越しができたのである。

図2『女大学宝開』(月岡雪鼎、宝暦年間)国際日本文化研究センター蔵
安永・天明期の江戸歌舞伎の名優、初代中村仲蔵の回想録『月雪花寝物語』には、仲蔵が若いころ、舞台子をしていたことが赤裸々に記されている。
同書によると、仲蔵は金持ちのひいき客に呼ばれ、男色の関係を結んだことがあった。それを知った兄弟子が嫉妬し、相弟子四人と共謀して、五人で仲蔵を輪姦した。これについて――
此時はむねんに御座候
――と、仲蔵は述懐している。
また、『当代江戸百化物』(馬場文耕著、宝暦8年)によると、越後新発田藩の七代藩主溝口直温(なおあつ)は男色が好きで、若いころの役者の二世瀬川菊之丞を寵愛し、大金をつぎ込んだという。
ところで、陰間は前髪が命といわれた。そのため、陰間は何歳になっても月代(さかやき)を剃らなかった。
図1で、舞台子が頭にのせているのは、紫縮緬(むらさきちりめん)で作った野郎帽子。紫帽子とも呼ばれた。これで、月代を隠したのである。
図2は、下になっている男は野郎帽子をしているので、舞台子とわかる。上になった客の男は、こう言っている――
「気のゆくときは、なお可愛いぞ」
「気のゆく」は、快感の絶頂のことである。
陰間の中で、舞台子が大きな位置を占めていた。