江戸の疫癘防除~疫神社の謎⑥~
厄神社の中で別建てにして建立された疱瘡神社
天然痘の猛威を鎮めるのに必死だった武蔵野・布田の庶民
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布多天神社の末社に並ぶ左から御嶽神社、祓戸神社、疱瘡神社 写真/稲生達朗
この国は、疫病は疫神の祟りだとして、その災禍を免れるために社を建てて祀る。
祟り神のもたらす疫病には、いろいろあることはすでに述べた。
この国に古くから蔓延(はびこ)ったものでは赤痢、麻疹、風疹、そして疱瘡などが挙げられるし、時が下ってからはコレラ、チフス、ペストなどが流行した。
中でも、天然痘には、ほとほと苦しめられた。きわめて強い感染力を持ち、致死率が2割から5割ほどに達していたからである。そんな天然痘をもたらす疫病神を、とくに疱瘡神という。
疱瘡神社とは、その疱瘡神を祀った社のことだ。
要するに疫神の機嫌をなだめ、疫病の蔓延を防ごうとしてきた。そうした社を、疫神社という。ただ、日本人がいちばん恐れたのは天然痘だったものだから、厄神社の中でもいわば別建てにして疱瘡神社を建立した。
疱瘡社や疱瘡稲荷という社もあるが、これらは呼び方が異なるだけで、ほぼ同じ内実と捉えていい。
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布多天神社の末社に勧請されている疱瘡神社 写真/稲生達朗
もっとも、天然痘という呼び名はそれほど古くはない。
現代から二百年ほど遡った文政年間に、肥前国(現在の佐賀県、長崎県の一部)で呼ばれ始めた。
それまで、つまり江戸時代の初期から中期にかけては、疱瘡、痘疹、赤斑瘡(あかもがさ)、痘瘡、芋病(いもやみ)などと称されていた。
疱瘡は平安時代、赤斑瘡は鎌倉時代、痘瘡は室町時代に呼ばれ始めたらしいが、奈良時代には芋瘡(いもがさ)、裳瘡(もがさ)、豌豆瘡(えんどうがさ)などと呼ばれていた。
方言でも「いも」とか「えも」とか呼び習わされていたようだ。
なぜ、豆なのかといえば、顔から全身にかけて豆粒大に膿む赤いできものが広がってゆく病だからだ。また、意識を失うほどの高熱や呼吸不全を乗り越えて、なんとか病は癒えたものの、顔に痘痕(あばた)が残ってしまうからだ。
――疱瘡は器量定め(疱瘡は見た目を左右する)。
といわれたのは、それに由来している。
また、なぜ、芋なのかといえば、治癒してゆく際に瘡蓋(かさぶた)ができてゆくのだが、その形が土の中に広がってゆく芋の根瘤(こんりゅう)に似ているため、あるいは、瘡蓋が芋のように腫れ上がるためだ。
このため、疱瘡神は、痘神や痘鬼あるいは瘡(かさ)という音韻から笠神(かさがみ)とも呼ばれた。
そうしたことから、
――痘神(いもがみ)に惚れられ娘値が下がり。
という川柳まで詠まれていた。

嘉永4年(1851)5月に両国回向院で行なわれた、為朝明神像御開帳の疱瘡絵。赤絵とも呼ばれ、疱瘡に対して効力があるまじないの色とされ、護符の役目を持っていた。源為朝が疱瘡神を退治したという俗信があり、まじないのため、戸口に「鎮西八郎為朝御宿」と書いて貼ることが行なわれた。「鎮西八郎為朝」「疱瘡神」歌川国芳筆/都立中央図書館蔵
(次回に続く)