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江戸の疫癘防除~疫神社の謎④~

祟り神、道真、そして布多天神社の成立順の謎

死を呼ぶ赤痢、麻疹(はしか)、風疹、疱瘡と祟り神

道真が天神に祀られる前からあったと伝えられている布多天神社(東京都調布市)

 疱瘡(ほうそう)神社とは、疱瘡神を祀った社のことだ。疱瘡神は、天然痘をもたらす疫病神をいう。疫病神は厄病神とも書き、疫神とも略される。悪霊、悪鬼、悪神、邪神とか呼ばれるもののひとつとおもえばいい。

 

 古来、邪(よこしま)な神は、人間にとってきわめて恐ろしい出来事を為した。中でもいちばん恐ろしいのは、死だ。死の要因となるのは、地震や台風や旱魃(かんばつ)や豪雨といった天変地異、さらには疫病の蔓延などが挙げられる。

 

 こうした邪なる神の仕業を、古(いにしえ)のひとびとは「祟り」と呼んだ。

 

 だから、その神は、祟り神とも呼ばれる。

 

 祟りのひとつとなる疫病は、いろいろある。この国に古くから蔓延(はびこ)ったものでは赤痢、麻疹、風疹、そして疱瘡などが挙げられるし、時が下ってからはコレラ、チフス、ペストなどが流行した。中でも、疱瘡にはほとほと苦しめられた。そうした疫病をもたらす祟り神を、疫神(やくしん)という。

 

 疫神の中でも、特に疱瘡をもたらすのが冒頭に記した疱瘡神である。

 

 疱瘡神は、この国をくりかえし襲って、数え切れない人々を死に至らしめてきた。いいかえれば、日本の歴史の裏側で、消えることなく浮遊してきた。そこで、江戸時代から明治時代の初めにかけて、その疱神を祀って病の蔓延を防ごうとしたのが、疱瘡神社だ。

布田五宿と布多天神社、東京調布付近の略地図

 「そうか、調布あたりも天然痘には苦しめられたんだな」

 

 筆者がそう感じ、冒頭の布多天神社が現在残っている甲州街道の宿場町はかつて布田(ふだ)五宿と呼ばれた。

 

 国領(こくりょう)、下布田、上布田、下石原(しもいしはら)、上石原からなる布多天神はそこの総鎮守とされたから五宿天神とも呼ばれたらしいが、由緒はその五つの宿場などとは比べ物にならないくらい古い。平安時代のはじめに編纂された延喜式神名帳に記された式内社だというから、少なくとも延長年間(923~932)にはすでに建立されていたことになる。

 

 だが、そこには幾分の疑問が残る。

 

 天神の名が付くからには菅原道真が祭神であるはずだが、建立された時代にずれがある。道真が没したのは延喜六年。延喜は延長のひとつ前の元号だが、道真が天満天神の勅号を贈られて、京都の北野に天満宮が建立されたのは、死後40余年も経った天暦元年のことだ。

 

 つまり、道真が天神になる前に、すでに布多天神社は創建されていた。

 

 道真は後に合祀されたのであろうが、いったいどういう経緯があったのだろうか。

(次回に続く)

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秋月達郎あきづき たつろう

作家。歴史小説をはじめ、探偵小説から幻想小説と分野は多岐にわたる。主な作品に『信長海王伝』シリーズ(歴史群像新書)、『京都丸竹夷殺人物語: 民俗学者 竹之内春彦の事件簿』(新潮文庫)、『真田幸村の生涯』(PHP研究所)、『海の翼』(新人物文庫)、『マルタの碑―日本海軍地中海を制す』(祥伝社文庫)など

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