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世界を驚かせた“伊豆の船大工”たちの造船技術 日本初の洋式帆船は「造船発祥の地・伊豆」で建造された 

海洋国家日本を支えた和船の歩み 


四方を海に囲まれている日本にとって、船は欠かすことのできない移動手段であった。日本で誕生した和船と呼ばれる船は、時代とともに独自の進化を遂げてきた。ところが面白いことに、江戸時代の黎明期と幕末期に、伊豆の地で西洋式の船が建造されていたのである!


へダ号の進水式が描かれた錦絵。船体はデフォルメされているため、実際のものよりかなり小さく見える。だが西洋式の船台進水の様子はしっかりと描かれている。

 徳川幕府が創設してまだ間もない慶長14年(1609)9月、500石以上の大船建造の禁令が制定された。これは主に西国の大名が強大な水軍力を有し、大軍を率いて江戸へ攻めて来るのを防ぐのが一番の目的であった。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)名で発布されたが、画策したのは徳川家康であった。ただしこの時に対象とされた船は沿岸を航行する和船で、外洋航行目的の朱印船(しゅいんせん)は除外されていた。

 

 その後、この禁止令は何度か手直しされ、寛永15年(1638)5月2日、荷船以外の大船を建造することを禁ずる法令を厳格化、厳重な造船制限を行うこととした。これにより制限対象が軍船であることが明確になったため、国内の廻船(かいせん)業は活性化することができた。こうした経緯から、江戸時代に日本国内で運用されていた廻船は、陸地が見える範囲を航行することが基本となった。

 

 この時代に、遥か彼方の欧州から日本へやって来たガレオン船は、外洋を航行するために三角帆と四角帆を組み合わせ、向かい風でもジグザグ航行が容易にできるように設計されていた。一方、沿岸航海に特化した和船には、大きな四角い帆だけが装備され、基本的に順風を捉えて航行していた。

 

 さらに和船のもう一つの特徴が、船底が平らな平底構造であること。それに対して西欧船は船底に竜骨(キール)があり、それを基準に肋骨のようにフレームを形成している。竜骨がない和船は浅瀬や起伏のある川で座礁する恐れが少なく、着岸や陸に引き揚げるのが容易であった。しかし遠洋航海には不向きな形状だ。それは日本人にもわかっていたことである。果たして日本人には、外洋航行用の船を建造する技術がなかったのであろうか。答えはもちろん“否”である。

伊東市の「按針メモリアルパーク」に建つ三浦按針とサン・ブエナ・ヴェンツーラ号の像。伊東市の市政30周年を記念して設置された彫刻は、地元の彫刻家重岡建治氏の作品。

 徳川家康は慶長9年(1604)、自らが保護していたイギリス人の航海士ウイリアム・アダムズ(三浦按針/みうらあんじん)に命じて、伊豆国伊東で西洋式帆船を建造させた。アダムスは厚い砂州があった松川河口に穴を掘り、そこに丸太を敷いてから、その上に80トンの帆船を造る「砂ドック方式」を試みている。船が完成後にはドックまでの水路に海水を引き込み、見事に進水させた。こうした造船ドッグは、日本で初めてのものであった。この船の建造には日本側の技術者や船大工、さらには幕府の御船奉行の向井将監(むかいしょうげん)らも関わっていた。

 

 そもそも家康が造船のための地として伊豆を選んだのは、木材が豊富な天城山系が背後に迫り、しかも松川河口から相模湾に出れば、すぐに深い海となり座礁の心配がなかったからと言われている。家康はその昔、鎌倉幕府3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)が鎌倉由比ヶ浜で大船を建造させたが、遠浅の海のため進水できなかった歴史を学んでいたのであろう。

 

 このシリーズの1回目で取り上げた、日本初の造船所が狩野川畔に築かれたことも、あるいは知っていたのかもしれない。家康は小田原攻めや江戸城の石垣を築いた際に、伊東の土地柄を聞いていたことも考えられる。船に試乗した家康は満足し、すぐさまさらに大きな120トンのガレオン船の建造を命じている。

伊東市役所市役所1階ロビーに展示されている、精巧なサン・ブエナ・ヴェンツーラ号の模型。造船を成功させたウィリアム・アダムスは旗本に取り立てられ、相模国三浦郡を与えられ三浦按針と名乗ることになる。

 慶長12年(1607)には2隻目の「サン・ブエナ・ヴェンツーラ」が完成。このガレオン船は乗船が難破したため日本に滞在していた、前フィリピン諸島総督ロドリコ・デ・ビベロに貸与された。そして慶長15年(1610)6月13日、浦賀からアメリカ大陸を目指し船出して、約4カ月をかけて太平洋を横断。1027日にメキシコのアカプルコに到着した。

 

 この船の影響かどうかは不明だが、その後は直進性を重視した竜骨装備の北前船も造られている。

 

 このように古代から連綿と続いた伊豆の造船技術は、さらに幕末でも脚光を浴びることとなった。嘉永6年7月18日(1853年8月22日)、軍艦4隻を率いて長崎に来航したロシア使節のプチャーチン提督は皇帝よりの国書を長崎奉行に提出。ペリー艦隊が浦賀に来航してから約1カ月半後のことであった。

 

 翌年10月、プチャーチンが座乗したディアナ号が単艦で下田に入港する。目的は北海道、千島、樺太方面の国境問題を解決することと、通商条約を結ぶことであった。ところが11月4日、安政東海地震が発生し、ディアナ号は津波により大破してしまう。この時、プチャーチン一行は波にさらわれた日本人数名を救助。これが幕府関係者に好印象を与えた。ディアナ号の修理を要請された幕府は、伊豆の戸田村で修理を請け負うことを承諾する。

地震による大津波に遭遇したディアナ号は、下田での沈没は免れた。しかし駿河湾へと回航され、戸田村を目指すも富士沖でシケに遭遇し、あえなく沈没してしまう。そのため代船の建造が決定する。

 だがディアナ号は駿河湾内でシケに遭遇し、宮島村(現在の富士市)沖合で沈没。乗員は日本人に救助され、全員が無事に戸田村に入れた。そこでディアナ号に代わる船を建造することとなり、技術将校のモジャイスキー大尉の指導のもと、工学士官が設計を担当。そこに日本人船大工が同席した。この造船に関して幕府側は韮山代官江川英龍(ひでたつ・太郎左衛門)と勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)を責任者に任命している。

後に君沢形と名付けられた同型スクーナーの一番船「へダ号」の絵図。これはロシア人が運用中の様子を描いたもの。ロシア海軍の軍艦旗が見える。

 日本側は西洋式造船術を会得する好機ととらえ、戸田村の7人の船匠(船大工の棟梁)、約40人の船大工、それに人夫150人が造船作業に参加している。安政元年(18541224日に作業が開始され、翌年3月10日には無事に進水式を終え、建造地にちなんで「ヘダ号」と命名されている。その後、速やかに艤装を施し、3月16日には初航海に出た。

 

 日本人船大工たちは、誰もが洋式造船に携わるのは初のことであったが、幕府はすぐに同型船の建造を指示。安政2年(185612月までに、6隻が戸田で建造された。これらの同型スクーナーを、幕府は「君沢形(きみさわがた)」と命名している。

 

 これは幕末日本の造船技術を飛躍的に高めた、近代造船の夜明け的な出来事だった。同時に、伊豆の船大工たちの高い技術力が、世界を驚かせた。その後ヘダ号はプチャーチンら48名を乗せ、無事にロシアのニコラエフスクへの航海を果たしている。

君沢形量産船の絵図。この船が建造中に、幕府の許可を得た佐賀藩や水戸藩から、技術習得目的の藩士が派遣されている。こうして幕末日本に、西洋式造船術の種が蒔かれていく。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、徳間書店勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。

 

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