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日本最古の造船所跡は伊豆にある!? 大陸との交流がもたらした船の発展を深堀りする

海洋国家日本を支えた和船の歩み 


四方を海に囲まれた島国・日本。当然、人は太古の昔から水の上を移動し、見知らぬ土地へ渡ってみたいと考えた。そんな日本に船と呼べるものが登場したのは、縄文時代だと言われている。以来、移動・運搬・戦闘など、日本人の暮らしに欠かせない存在となった船の歩みについて振り返ってみたい。


静岡県伊豆市松ケ瀬にある軽野神社。創建年代は不明だが、延喜式の式内社に比定。応神天皇の勅命により、この付近で採れた材木で船が造られたという。国道136号戦と狩野川の間、石山という名の丘を背に鎮座する。

 一本の木をくり抜いた丸木舟が、日本における造船の始まりとされ、このような船は単材刳船(くりぶね)と呼ばれた。各地で出土したものは長さが57m、幅は5060cm。使用されている木材は太平洋側のものはカヤ、日本海側はスギが多く使われていた。

 

 縄文人は丸木舟を使い川や湖沼を渡り交易を行ったり、魚介類を得るための漁に利用したりしていた。さらに海を渡った痕跡すら残されている。それは日本海に浮かぶ隠岐島(おきのしま)や伊豆諸島の神津島(こうづしま)で算出される黒曜石(こくようせき)が、中国地方各地や関東・東海地方の縄文遺跡で発掘されていることから推測されている。

 こうした丸木舟を造るには、それに適したサイズの樹木が自生していることが欠かせない条件だ。現代のように運搬するための重機やトラックがない時代、重量のある船を確実に浮かべるには、造船場のすぐ近くに水辺があることが条件となってくる。

 

 海のすぐ近くまで山が迫り、豊かな樹木に覆われている地が随所で見られる日本は、そうした意味でも造船に適した地域が点在している。なかでも日本最古の造船所の跡地と言われているのが、静岡県伊豆市松ヶ瀬にある軽野(かるの)神社だ。

 

 この社は延喜7年(907)の延喜式神名帳に「軽野明神」としてその名を見ることができる。『日本書紀』の記述からすると、応神天皇5年(275)に伊豆国で造船が行われた際、この地が造船所もしくは伐り出した船材を祀る山口祭を行った場所と推測することができる。

 

 社名の由来も、この付近の木材で造った船が軽く浮かんだことからと伝わる。応神(おうじん)天皇が造らせた巨船は長さが十丈(約30m)もあり、「枯野(からの)」と呼ばれ、海路武庫の港に運ばれた。そして朝夕淡路島より、天皇が用いる清水を汲みに通う役に就き、26年間も使用された。この船の名も、軽野神社や周辺の狩野郷の語源と言われている。

軽野神社のある場所は海からは離れているが、狩野川に面しているため出来上がった船は川を下って駿河湾に浮かべたと考えられる。ダムなどがなかった古代の狩野川は、もっと水量が多く水深も深かったと考えられる。

 このような船に乗り、倭人(わじん/日本人)が何度も大陸を訪れていたことが、古代中国の文献である『魏志倭人伝』などにも記述されている。この時代にはすでに朝鮮半島沿岸を迂回して、中国に達する航路が開けていたと考えられている。『日本書紀』に記載されているところでは推古17年(607)、聖徳太子が小野妹子(おののいもこ)を隋(ずい)に派遣している。この遣隋使により、日本は隋との間に正式な国交を結んでいる。この時代の日本の船は、まだ刳舟が中心であった。そのため遣隋使が乗った船は、大陸の技術を導入して特別に建造されたものであったと考えられている。

 

 とはいえ当時の航海術は現代とは比べ物にならないほど稚拙だったし、動力は人力と風や海流といった自然の力しかない。当然、遭難による死者も多かった。そのため大陸と日本を結ぶ航海は、現代における宇宙旅行以上以上に難しいものであった。

舒明天皇の時代に始まった遣唐使は200年以上も続いた。大陸からさまざまな文物がもたらされたが、造船技術もそのひとつ。船の大きさは長さ30m、幅7~8m、帆柱2本で平底箱型であり、120人ほどが乗り込んだ。

 このように、日本の造船技術は大陸との交易を重ねることで発展していった。遣唐使船は630年から894年までの間に、判明しているだけで20回(諸説あり)、任命されている。使用された船は中国のジャンク船型であり、かなり大型化してはいたが無事に帰国できたのがわずか8回であった。

 

 遣唐使が廃止された平安時代には、大陸との交流は途絶えていたが、平清盛が登場した平安末期になると、日宋貿易を画策した清盛により瀬戸内海航路が整備され、港の整備も大々的に行われている。鎌倉時代に入っても、大陸と政府レベルの交流は持たれなかったが、民間交易は盛んに行われていた。

 

 この頃に使われていた船に関しては、絵巻物などを見てどの様な物だったかを探るしかない。それは実物が出土していないからである。この頃は船の廃材を別の用途に再利用するのが普通であったから、船の形を残したものがほぼ残されていなかったからだ。

明との間で勘合貿易を行った室町幕府三代将軍の足利義満。義満は明皇帝から日本国王として冊封を受け、明皇帝に対して朝貢したが、貿易がもたらす利益を得るため「名分を捨て実利を得る」ことを選択する。
©ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

 そして室町時代になると、足利義満(あしかがよしみつ)が明との間で勘合貿易を始めたことで、再び貿易が盛んになっていく。勘合(かんごう)貿易というのはその頃、朝鮮半島から中国大陸の海域を行き交う船や港を襲い、略奪行為を働いていた倭寇(わこう)と呼ばれる海賊や、密貿易を繰り返す商船と区別するために、勘合符を正式な貿易船に与えたことからこう呼ばれた。

 

 この対明貿易により、日本国内の造船技術は進歩している。15世紀に入ると2500石(千石船に換算すると約150トン積み)クラスの大型船も造られるようになった。そして時代は、激動の戦国時代へと向かっていく。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、徳間書店勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。

 

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