櫻井が予見した太平洋を舞台とする「第二の世界大戦」『子供のための戦争の本』が出版された年、日本は国際社会からの孤立する
戦後80年特別企画
帝国陸軍の軍人でありながら、世界的なベストセラー作家でもあった櫻井忠温(さくらいただよし)。近代戦記文学の先駆者と言える櫻井が、昭和8年(1933)に上梓した『子供のための戦争の話』には、過去の戦争の分析のみならず将来起こりうる戦争の要因についても書かれている。この本が出版された年、日本が国際社会からの孤立した歩みを、振り返ってみたい。
■予見されていた太平洋が舞台の「第二の世界戦争」

毒ガスを防ぐガスマスクを着用し、塹壕に布陣するオーストラリア兵。1901年にイギリスから独立していたが、その後もイギリスが関わった戦争に参加している。写真はベルギー西部のイーペルで1917年に撮影されたもの。
アメリカは19世紀の早い時期から、アジアへの進出を画策していた。ペリー提督が日本にやって来て開国を迫ったのもその一環である。そして日本を開国させ、最初に条約締結に成功したのだが、1861年から1865年に南北戦争という内戦が起こったことで、その後はイギリスやフランスの後塵を拝すことになり、アジア進出に出遅れてしまう。
そこで前回も触れた通り、アメリカは1898年にハワイ王国を併合。さらにスペインとの戦争に勝利し、フィリピンを奪ったことで、太平洋からアジアの地への道を確保する。
明治37年(1904)に日露戦争が勃発すると、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは満州の地からロシア帝国を追い払う好機と捉え、日本寄りの中立を保った。その後、日本の要請を受けて、日露の仲介役を引き受けることにした。これは大統領が単なる日本贔屓であったからではない。日本に大きな恩を売りつつ、ロシアが撤退した後の中国市場に打って出ようと考えたからであった。
それを実現するために、まずは戦争を終結させたうえで、ロシアに甘い講和条件を認めている。そしてアメリカは、日本がロシアから譲渡された満州鉄道の経営権を、アメリカの鉄道会社と折半することを提案してきた。鉄道経営を通じて、中国大陸での権益拡大を図ったのである。ところがその思惑は、ポーツマス講和会議全権を担っていた、小村寿太郎(こむらじゅたろう)外相に看破され阻止されてしまう。

ポーツマス講和会議の全権を務めた小村寿太郎。小村がアメリカ滞在中に、来日したアメリカの鉄道王ハリマンと桂太郎首相が南満州鉄道共同経営の覚書を結んでいる。帰国した小村は日本の国益が損なわれると周囲を説得、これを破棄した。
早い段階から日本の目覚ましい発展に対して警戒心を抱いていたルーズベルトは、日露戦争後に存在感を増してきた日本を、はっきりとアメリカへの脅威となる存在と認識した。そこで1907年12月から1909年2月にかけ、世界一周航海を行っていたアメリカ海軍大西洋艦隊を、日本に寄港させることで日本海軍を牽制。
「日本人は誇り高く、感受性も強い。戦争を恐れない性格で、日露戦争の勝利の栄光に酔っている。彼らは太平洋のパワーゲームに参加しようとしている。日本の危険性は我々が感じている以上に高いのかもしれない」
これは1906年10月、ホール上院議員に宛てたルーズベルトの私信の一部だ。「だからこそ私はずっと海軍増強を訴えてきた」と続いている。強力な大艦隊を有していれば、日本は太平洋の覇権を簡単に手に入れることができなくなる、と断じていたのだ。

アメリカの第26代大統領セオドア・ルーズベルト。軍人、作家、ハンター、探検家としても知られている。最初、日本に対して好意的な感情を抱いていたが、日本の驚異的な軍事力の近代化を見て、日本脅威論者となる。
1914年7月28日、それまでの戦争とは比べものにならないほど人、物ともに多大な被害をもたらすこととなる第一次世界大戦が勃発する。欧州のほぼ全域が戦場となった大戦は、4年3カ月余り続き1918年11月11日、ドイツ帝国が連合国との休戦協定に署名、すべての軍事行動が停止された。この戦いでの戦死・行方不明者は、両陣営合わせほぼ1800万人、戦傷者は2100万人以上という惨状であった。
第一次世界大戦の結果、欧州の地は荒廃してしまい、代わりに戦争成金の国家が現れた。戦前は欧州諸国から金を借りていた債務国だったのが、戦中から戦後にかけて莫大な金や軍需品を欧州諸国に貸し付ける債権国となったアメリカである。第一次世界大戦により、欧州諸国の影響力が低下したアジアは、アメリカにとって再び進出を画策する最大のチャンス到来だったわけだ。だがそこに、どうしても邪魔になる存在があった。日本である。

1902年に締結した日英同盟は1905年と1911年に更新されている。その関係から第一次世界大戦で日本はドイツに宣戦布告。ドイツ東洋艦隊の根拠地であった山東省の青島を攻略した。四五式二十糎榴弾砲で青島要塞を砲撃する日本陸軍。
日本は日露戦争前に締結していた日英同盟を理由に、ドイツへ宣戦布告してドイツの根拠地となっていた中国の青島を攻撃。その一方で、中国へは21カ条の要求を突きつけるなど、大陸での権益拡大を図った。アメリカにとって、これはまさに「目の上の瘤」だ。だが日本はイギリスと同盟を結んでいるため、さすがのアメリカも下手に手を出せない。
日本の中国での活動を抑え込みたかったアメリカは、まず日英同盟の破棄を画策。おあつらえ向きに、大正8年(1919)にパリで開かれた講和会議において、日本が「人種差別撤廃」を提案したことで、多くの植民地を持つイギリスとの間に禍根を残すこととなった。アメリカはこれに付け込み、大正10年(1921)11月から翌年2月まで、アメリカや日本、イギリスなどを含む9カ国をワシントンに集め、軍縮会議を開催した。
このワシントン会議での決定でよく知られているのが、米・英・日の主力艦の保有を5・5・3の比率にする、というもの。これには発展めざましい日本に対し、今のうちに釘を刺しておく意味があった。それ以上に後に大きな禍根となったのが、日本、アメリカ、イギリス、フランスの4カ国が調印した「四ヶ国条約」であった。
これは「太平洋地域の平和維持」を建前として、太平洋諸島の非要塞化などを取り決めていたが、その実「日本の影響力を削ぐため、日英同盟を破棄させる」のが、真の目的となっていた。イギリス国内では同盟の扱いに関して意見が分かれていたが、イギリス自治領のカナダが日英同盟更新に反対だったことと、兄弟国アメリカとの関係を重視したことが決め手になり、大正12年(1923)8月17日に20年続いた同盟は失効した。

ワシントン軍縮会議に臨んだ日本の全権大使。左から幣原喜重郎、加藤友三郎、徳川家達。海軍大将であった加藤は、アメリカ発案の553艦隊案に積極的に賛成し軍縮に務めたことで、好戦国日本という悪印象を払拭。
結果、イギリスの後ろ盾を失った日本とは反対に、アメリカは中国大陸や太平洋で日本と対立しても、イギリスから横槍を入れられる心配がなくなった。この後、アメリカが日本に対してさまざまな締め付けを行なっていったことは、説明するまでもない。
櫻井の著作『子供のための戦争の話』には、「第二の世界戦争」の舞台となりうるのが太平洋地域と記されている。そこでは「太平洋を挟んで対する日米、西より北より来る英国、ロシアを始めとし、フランス、ドイツ、オーストラリア、オランダ等、極東の天地は、暗雲重畳の観を呈するようになった」と警鐘を鳴らしている。その冷静な分析は、本の発行から10年も経たずに現実となるのである。

昭和16年(1941)12月8日、日本海軍空母機動部隊の艦載機が、ハワイ真珠湾の米太平洋艦隊とその基地を攻撃。櫻井が『子供のための戦争の話』で書いていた、太平洋を舞台とした世界戦争が現実のものとなった。