×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

特攻作戦ではなく夜間攻撃の合理性を説いた美濃部少佐 大戦末期、米軍から恐れた夜襲部隊 「芙蓉部隊」とは

戦後80年特別企画


大東亜戦争末期には、爆弾を抱えた戦闘機が敵の艦船に体当たりする「神風特別攻撃」、いわゆる「特攻」が作戦の主軸を占めた。そんな中、特攻を否定し夜間攻撃の合理性を説き、それを終戦まで実践した部隊があった。美濃部正(みのべただし)少佐率いる「芙蓉(ふよう)部隊」である。


芙蓉部隊の集合写真。前から2列目の中央付近にいる無帽の人物が美濃部少佐。着用している革のジャケットは、ソロモンでアメリカ軍捕虜から譲り受けたフライトジャケット。美濃部式訓練は非常に厳しかったという。

 昭和20年(1945)2月、千葉県の木更津基地で行われた海軍の航空指揮官らによる作戦会議は、異様な雰囲気に包まれていた。それは目前に迫ったと考えられていたアメリカ軍の沖縄侵攻に対し、司令部がまともに戦えない練習機まで特攻作戦に駆り出す「全軍特攻」の方針を打ち出したからだ。

 

 会議に参加している者の中に<そんな無謀な作戦で、勝てると思っているのか>と、心の中で自問する若い士官がいた。この年の1月、連合艦隊所属の夜間戦闘機隊である戦闘901飛行隊、戦闘812飛行隊および戦闘804飛行隊が、藤枝海軍航空基地(現在の航空自衛隊静浜基地)に集結・再編成された「芙蓉部隊(正式名称は第131航空隊)」の指揮官、美濃部正海軍少佐であった。

 

 未熟な技量の若い搭乗員が操縦する特攻機が、高性能な米軍機に敵わないことは誰の目にも明らかだ。ましてや練習機まで投入するなんて、無意味過ぎる。だが当時の軍隊では上官の命令は天皇の命令と同義、背くことは「抗命(こうめい)罪」とされ、極刑に処されるのが当たり前であった。そのため、上層部の決定に意義を唱える者はいなかった。

 

 ところが美濃部少佐は、会議の終盤に立ち上がり声を上げてしまう。それは「敵の防衛ラインはそれこそ十重二十重。それを突破するのは不可能です。特攻という勇ましい掛け声だけでは勝てません!」というものであった。美濃部少佐はひたすら<少年たちを無意味な死の道連れにはできない>と考えたのだ。

1940年春頃、空母千歳に乗艦していた頃の美濃部。彼がパイロットを目指したのは、同級生の父親が第1次大戦時、青島のドイツ軍要塞を水上機で爆撃した武勇伝を聞かされたことがきっかけ。最初は水上機乗りであった。

 美濃部少佐は開戦以来、水上機に乗り真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、アッツ島上陸作戦など、ずっと最前線で戦ってきた自負があった。しかも熟練の水上機乗りを集め、零戦で夜間攻撃を行う部隊を指揮していたのだ。精神力を強調し、具体的な戦術を持たない司令部のお偉方とは違い、死が避けられないのならば少しでも勝算のある手段を講じたい、と考えていたのである。

 

 そんな命がけの訴えが効いたのか、通常ならば厳罰に処されるところ、司令部から「若者たちの訓練を見てもらいたい」という命令が下された。上級司令部である第3航空艦隊司令部は、芙蓉部隊を特攻作戦から除外するという、異例の判断を下したのであった。こうして美濃部少佐は、晴れて搭乗員および整備員の養成、訓練、航空機の整備を、合理的かつ効果的に進めることが可能となった。

 

 そして昭和20年3月末になると、目前に迫った沖縄攻防戦に対応するため、主力を藤枝から鹿児島県の鹿屋(かのや)海軍航空基地に移した。いよいよ沖縄戦が始まり、菊水1号作戦が発動されるとともに、沖縄在泊の敵艦船や敵の手に落ちた飛行場への夜間攻撃を開始。

 

 やがて鹿屋には頻繁に米軍機が襲来、海軍航空基地は激しい空襲に見舞われる。そこで芙蓉部隊は鹿屋基地から北東に約27km離れた岩川海軍航空基地に移った。この基地は完璧なカムフラージュが施されていて、夜間も隙なく灯火管制を行っていたため、終戦まで米軍に発見されることがなかった。

 

 特攻により他部隊の戦力が枯渇してゆく中、芙蓉部隊は岩川基地を拠点として夜間攻撃を継続。この部隊では「離陸がやっと」というひよっこパイロットを、往復約1700km、5時間前後にも及ぶ夜間攻撃ができるようになるまで鍛え上げた。そして随時要員を交代させるという、他の部隊では例を見ない画期的なシステムを確立している。

 

 さらに特筆すべきなのが、平均可動率が40%ほどという、扱いが難しいことで知られていた艦上爆撃機「彗星」を、芙蓉部隊では可動率85%を維持していた。そのため、常に戦力を供給できる状態であった。

芙蓉部隊の主力機であった艦上爆撃機「彗星」と、部隊名の由来でもある霊峰富士山。水冷エンジンを搭載した彗星12型は、艦上爆撃機としては高速だったため戦闘機に配属され、芙蓉のような夜間戦闘機隊に転用された。

 芙蓉部隊は終戦まで、1機の特攻機を出すこともなく夜間攻撃を続け、半年ほどの短い期間ではあったが、出撃回数は81回を数え、のべの出撃機数は786機にも及んだ。そして戦艦1隻、巡洋艦1隻、大型輸送船1隻を撃破、夜戦で2機の敵機を撃墜するという戦果を挙げ、米軍から恐れられる存在となった。

 

 現在、美濃部少佐に関する様々な異聞も伝わってはいるが、いわゆる「特攻作戦」を採用しなかった部隊の長としての重みは、変わることがないと思う。

 

KEYWORDS:

過去記事

野田 伊豆守のだ いずのかみ

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。

 

最新号案内

『歴史人』2025年11月号

名字と家紋の日本史

本日発売の11月号では、名字と家紋の日本史を特集。私たちの日常生活や冠婚葬祭に欠かせない名字と家紋には、どんな由来があるのか? 古墳時代にまで遡り、今日までの歴史をひもとく。戦国武将の家紋シール付録も楽しめる、必読の一冊だ。