「戦というものは計画通りにはいかない」対米戦争直前に“日本必敗”を完全予測した「総力戦研究所」に対する東條英機の一言
太平洋戦争開戦の直前、総力戦体制に向けた教育と訓練を目的とした内閣総理大臣直轄の機関「総力戦研究所」が誕生した。この組織は実際に日米開戦前、当時の近衛文麿内閣に「日米戦わば日本は必敗」という報告をもたらせていたのである。だがこの報告により、戦争を止めることはできなかった。

日本が戦争に踏み切る要因となったのは、石油を確保することであった。マレー作戦やフィリピン作戦が一段落した後、石油を確保するためにオランダ領インドネシアに侵攻。パレンバンの戦いでは陸軍飛行戦隊の空挺部隊が油田地帯に降下した。
■若い専門家を集めてデータ重視の分析を行う
昭和15年(1940)8月、今後の戦争は単に武力戦だけでなく思想や戦略、さらに経済など各分野にわたる国家の全面的な総力による戦いになる、という見立てで「総力戦研究所」の設立が閣議決定された。10月1日に企画院内で開所式が行われた。初代所長は企画院総裁の星野直樹、最初の所員には渡辺渡陸軍大佐、松田千秋海軍大佐、外務省の奥村勝毅、内務省の大島弘夫、大蔵省の前田克巳らが充てられている。
ここに「研究生」という名目で、36人の第一期生が集められた。それは軍事の専門家に偏らず軍・官を代表する優秀な人材、それも「人格高潔・知能優秀・身体強権」で、将来は各方面で首脳となる素質を有している人物ばかりであった。その内訳は文官が22名、武官5名の官僚と、民間人が8名、さらに皇族が1名であった。年齢についても、なるべく35歳までという条件が科された。働き盛りだが、考え方が柔軟なことも重視したのだ。
研究所の入所式は昭和16年(1941)4月1日、首相官邸の大広間で行われた。この時、所長は2代目の飯村穣陸軍中将に代わっている。選ばれた研究生たちはこの日のために、さまざまな赴任先から慌ただしく東京に集められ、飯村所長の面接を受けていた。
入所式の翌日は8時30分から飯村所長の訓示、それから具体的な教育方法について説明される。「講義」と「演練」(ゼミナール)の2本立てで、演練が重要視された。入所日から3カ月あまりが過ぎた昭和16年7月12日、飯村所長は研究生による青国(日本)の模擬内閣を組織し、日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習(シミュレーション)を行うことを告げた。
研究生による模擬内閣は、研究所側から出されるさまざまな想定状況と課題に応じ軍事だけでなく外交や経済など、考えられるすべての面について詳細なデータを分析。日米戦がどのように推移していくかを研究した。
まず提示された状況設定は「英米の対青国(日本)輸出禁止という経済封鎖に直面した場合、南方(オランダ領インドネシアのボルネオ、スマトラ島など)の資源を武力で確保する方向で切り抜けたら、どうなるか」というものだった。
導き出された答えは「インドネシアの油田地帯を占領し、石油を確保するのは可能。しかしフィリピン基地から出動したアメリカ艦隊によって、南シナ海または南太平洋で輸送船団は攻撃され壊滅する。青国(日本)政府はアメリカ政府に抗議するも受け入れられず、青国(日本)艦隊が出動。アメリカ艦隊を撃滅したことで、開戦に至る」というものだった。教官側は、インドネシアに石油を獲りに行ったとしても、アメリカとの戦争はできる限り避けることを求めた。だが提示された条件を受け入れると、日米開戦は必至という結論となったのである。
教官側からの設定はどんどん追加され、アメリカ、イギリス、インドネシア(オランダ)と戦争になってしまった場合、物資を運ぶ船舶はどの程度撃沈されるのか、という点の研究にも力が注がれた。
模擬内閣には日本郵船から出向者もいて、ロンドンに駐在していた体験から、世界的に有名で信頼性の高い保険会社、ロイズのデータを持っていた。ドイツのUボートによる被害が蓄積されていた「ロイズ・レジスター船舶統計」をもとに計算したところ、日米が戦争状態になれば、毎月10万トンの船舶が失われ、年間では120万トンになる。
当時の日本の造船能力は、多く見積もってもせいぜい月に5万トン、年間で60万トンに過ぎない。単純計算で年に60万トンの船舶が減っていくことになる。これでは穴の空いたバケツでリレーをするようなもので、とても長期戦に耐えられない、という結果を得た。
この数字は戦後、実際の船舶損失量とほぼ一致していることがわかった。
こうして「総力戦研究所」に在籍する研究生たちは、青国(日本)の戦争遂行能力に関するさまざまな想定状況や課題に応じて、国民の精神力、船舶、物資、資金、労務等について専門家だからこそ知り得たデータを基に分析し、日米戦争の展開を予測。そこで導き出された結論は次の通りだった。
「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、戦争は長期戦になり、日本は物量において圧倒的に劣勢に立たされる。その負担に耐えるだけの国力は認められない。戦争の終末期になるとソ連の参戦もあり、終局、日本の敗北は必至という結論になる。ゆえに日米開戦はなんとしても避けなければならない」
これはまだ存在していなかった原子爆弾の使用以外、ほぼ現実となる予測であった。研究員たちはこの研究結果を、昭和16年8月26日、27日両日に首相官邸で行われた「第一回総力戦机上演習総合研究会」で報告している。
だがこの報告を聞いた実際の内閣(第三次近衛内閣)の陸相東條英機は、「あくまでも机上の演習。戦というものは計画通りにはいかない」という意見を述べている。実際の開戦よりも4カ月前のことであった。

総力戦研究所の2代目所長を務めた飯村穣陸軍中将。若い研究員とともに日米開戦となった場合のシミュレーションを行う。この演習で船舶の損失が造船量を上回ることや、戦争末期にソ連が対日参戦することなど、実際の戦争で起こることを正確に予測した。