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鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は勝利していた!? 歴史の影に埋もれた阿波沖海戦とは

日本海軍誕生の軌跡【第3回】


諸外国に追いつこうと、幕府もさまざまな改革に勤しんでいる。そのひとつが海軍力の強化であった。幕末期、幕府に匹敵する海軍力を有する藩は存在しなかった。そして戊辰(ぼしん)戦争勃発直後に、阿波沖で幕府海軍と薩摩艦隊が砲戦を繰り広げる海戦が勃発したのである。


阿波沖で砲戦を展開した薩摩藩の春日丸(手前)と幕府海軍の開陽(右奥)。春日丸は慶応3年(1867)に薩摩藩がイギリスから購入した木造外輪の軍艦。当時としては大型であったうえ、16ノットという快速を誇った。

 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、京都南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩と長州両藩が中心となり構成された新政府軍と旧幕府軍が戦闘状態となった。この鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、日本近代史上最大の内戦である戊辰戦争が勃発する。開戦初日から旧幕府軍は後退を続け、6日夜には徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が自軍を見捨て、海路江戸へ退却してしまったのだ。おかげで旧幕府軍は、戦う目的を失い総崩れに近い状態に陥ってしまう。

 

 だが海上の戦いは様相が違っていた。幕府海軍は開戦前から軍艦を使い、江戸から大坂へと兵員や要人を輸送していた。そのため大坂湾には、軍艦奉行並(当時)矢田堀鴻(やたぼりこう・景蔵)が座乗する「開陽」のほか、「富士山」「蟠龍」「翔鶴」(これらの艦船には丸を付ける表記もあり)「順動丸」「美加保丸」が展開していた。

江戸幕府の海軍で最後の海軍総裁を務めた矢田堀鴻(名は景蔵)。長崎海軍伝習所の一期生で、航海術では抜群の才能を発揮した。幕府海軍設立には、小野友五郎らとともにその中枢を担っている。

 一方の薩摩方も蒸気船を使い、上方に兵員を輸送していた。こちらも開戦前には軍艦「春日丸」と輸送船「平運丸」、同「翔鳳丸」の3隻が大阪・兵庫方面で活動中であった。

 

 開陽の船将で軍艦頭(当時)であった榎本武揚(えのもとたけあき)の元には、慶応3年1225日(1868年1月19日)に起こった薩摩藩江戸藩邸焼き討ちの報が伝わっていた。それで榎本は、徳川家と薩摩藩はすでに戦争状態にある、と判断し、蟠龍に平運丸を砲撃させる。被弾した平運丸は兵庫港に逃れたため開陽、富士山、蟠龍、翔鶴、順動丸の5隻が兵庫港を封鎖、薩摩艦隊を港内に閉じ込めた。

 

 この状況に薩摩方は抗議したが、オランダ留学で国際法も身に付けていた榎本は、徳川家が領有する兵庫港を封鎖するのは、国際法で認められた権利だとつっぱねた。

伊能忠敬の弟子であった幕臣の榎本武規(たけのり)の次男として生まれた榎本武揚(釜次郎)。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府が開陽を発注した際にオランダへ留学。明治新政府では海軍中将のほか、逓信大臣や文部大臣を歴任。

 1月3日に陸上の戦いが始まると、兵庫港を封鎖していた5隻は薩摩藩大坂藩邸攻撃のため、天保山沖に移動する。鹿児島へ帰ろうと脱出の機会を伺っていた港内の3隻は、この機に乗じて4日早朝に出港。平運丸は明石海峡へ、春日丸と翔鳳丸は紀淡海峡を目指した。3隻が脱出したことに気づいた榎本は、開陽1隻で追跡を開始。阿波沖で春日丸と翔鳳丸を補足した。そして榎本は砲手に

 

「停船を促す空砲を撃てぃ」

 

 と命じた。だが薩摩方の艦船はこれを無視、構わず航行を続けた。その様子を見て、榎本はすぐさま臨戦態勢を整えさせつつ、開陽を春日丸と翔鳳丸に向ける。さらに間髪入れずに砲撃を開始した。

幕末期に幕府海軍の主力艦となった、オランダ製の木造シップ型フリゲート艦の開陽。竣工時に34門の各種砲を装備し、うちクルップ旋条砲を18門も搭載。オランダ海軍にもこれに勝る軍艦はないと言われたほどだ。

 両軍とも数十発の砲弾を発射。彼我の距離が1200mになるまで肉薄するも、どちらも命中弾はほとんどなく、大きな損害には至らなかった。通報艦として建造された春日丸は、開陽よりも速力が勝っていたため、からくも戦場海域からの脱出に成功。1月6日には鹿児島へ逃げのびることに成功した。ただ兵庫港から出港する際、平運丸と衝突していたため、その後は上海のドッグに運ばれ、修理に時間を費やすこととなった。

 

 翔鳳丸は途中で機関が故障し、由岐浦(ゆきうら・徳島県海部郡美波町)で座礁。徳川方に拿捕されるのを恐れ、乗組員が脱出した後に自焼した。別行動をとっていた平運丸も機関の故障に悩まされたが、1月20日には鹿児島へたどり着いている。

月岡芳年が描いた錦絵『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』。鳥羽・伏見の戦いの最中、船で大坂を脱出した徳川慶喜が描かれている。これが旧幕府軍の敗北を決定づけた。

 この海戦は大坂周辺海域の制海権を確保した幕府側の勝利といえるが、軍艦奉行並の矢田堀、船将の榎本が上陸して不在だった6日夜、徳川慶喜はわずかな側近とともに、船将不在の開陽で江戸に脱出してしまった。主君に自艦を乗り逃げされた榎本をはじめ、残された将兵は混乱を極めた。

 

 この時、勘定奉行並に出世し、第二次長州征伐における動員や補給計画の立案に当たっていた小野友五郎(広胖・ひろとき)が、大坂城御蔵金藏に保管されていた金の運び出しと、負傷兵を翔鶴丸と順動丸に乗せる手配を完璧に指揮、無事に大坂を脱出させた。これにより艦隊は無事であったが、旧幕府海軍は大坂方面の制海権を失うこととなってしまう。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。

 

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