なぜ日本陸軍最大の勝利となった大作戦が実施されたのか 戦争末期に立案された大陸を鉄道で結ぶ計画とは【鉄道と戦争の歴史】
鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第14回】
第2次世界大戦末期に行われた、日本陸軍最大の作戦が「大陸打通作戦(たいりくだつうさくせん)」である。その目的は中国南部に展開する日本軍への補給改善と、大陸前線に展開する連合軍の航空基地を掃討するというもの。そして朝鮮半島の釜山からビルマのラングーンまで、鉄道で結ぶという壮大な作戦であった。

日本陸軍最大の作戦となった「大陸打通作戦」に参加、進軍する日本軍機械化部隊。この作戦で日本軍は800台の戦車を投入し、2400kmに及ぶ長大な距離で攻勢をかけている。まさに日本陸軍の建軍以来、最大規模の作戦。
昭和12年(1937)以来、中国大陸での戦いは止むことがなかった。太平洋での戦いと違い、日本軍は中国軍相手に有利な戦いを展開していた。だが英米からの援助を得ていた蒋介石(しょうかいせき)の国民党軍は、その都度退却戦法を取り、各地で粘り強く抵抗を続けていた。そして毛沢東(もうたくとう)率いる共産党軍は、山岳地帯にたて籠もり後方撹乱を続け日本軍を苛立たせていた。
昭和18年(1943)になると、日本海軍はアメリカ海軍の反攻により、太平洋の制海権を奪われつつあった。そのため南方占領地域からの戦略物資輸送は、滞るようになってきた。
そこで中国大陸に杭を打ち通すように大軍を大陸南部に進撃させ、日本軍占領下のインドシナ半島まで到達させて南方占領地と日本本土を陸路で結ぶ壮大な「大陸打通作戦」を計画した。立案者は大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎(たくしろう)大佐である。作戦計画は最終的に、対馬海峡に海底トンネルを通し、東京とシンガポールを鉄道で結ぶことを目標にしていた。

服部卓四郎大佐は陸軍士官学校第34期、陸軍大学校第42期卒。陸士34期では西浦進大佐と堀場一雄大佐と並び「三羽烏」と称されるほど優秀な人物であった。この作戦を立案する前は、東條英機の元で陸軍大臣秘書官を務めていた。
昭和19年(1944)になると、アメリカ軍の潜水艦によって海上の資源輸送は、ほとんど遮断されてしまう。そのため、本土の物資不足は悪化の一途を辿っていた。このままでは戦争継続が、物資面から不可能になるのは火を見るより明らかであった。
そこで大本営陸軍部は、危険な海上輸送で貴重な資源を海没させるより、安全な中国大陸を経由し、朝鮮半島から九州へ運び入れる計画を実行に移そうと考え、大陸打通作戦実施を決定したのである。
さらにアメリカのスーパーフォートレス(空の超要塞)B-29爆撃機による日本本土空襲を予測した大本営は、中国大陸の航空基地を前進基地として利用させないため、鉄道沿線の米軍飛行場を攻撃し、日本本土への爆撃を阻止することも作戦目的とした。

中国北部にて大陸打通作戦に参加した、戦車第3師団の九七式中戦車(新砲塔チハ搭載)。昭和19年(1944)12月に撮影されたもの。この師団は昭和17年(1942)6月に駐蒙の騎兵集団を改編し、中国戦線で編成された。
作戦のために動員されたのは支那派遣軍の歩兵17個師団、戦車師団1個、それに戦車や騎兵の旅団6個。兵員約50万人、車両1万2000台、戦車800両、火砲1500門、馬70万匹という、アジア・太平洋戦争開始以来、最大規模を誇る大作戦となった。司令官には支那派遣軍総司令官の畑俊六大将が就いた。
対する中国軍は、全土で300万の兵力を擁していた。昭和19年4月20日、覇王城(はおうじょう)を守る中国第85軍に対する攻撃から作戦の火蓋が切られた。中国軍はすぐに後退に移ったので、日本軍は追撃を開始する。

大陸打通作戦の司令官を務めた畑俊六大将。昭和天皇からの信任が厚く、阿部信行内閣が発足する際、天皇は「陸相は畑か梅津を選ぶべし」と言われた。これは温厚で誠実な畑なら陸軍の暴走や三国同盟締結を阻止できる、という期待からだと伝えられている。
日本軍は、河南省密県(みつけん)で中国軍の撃滅をめざした。それを任された第37師団の歩兵第225連隊により密県は攻略され、守備していた中国軍第23師団は壊滅する。その後も作戦は順調に進み、12月には予定通りの地域を占領して、インドシナ半島の日本軍部隊と合流するという大勝利を挙げた。
その結果、地図上では朝鮮半島の釜山から泰緬(たいめん)鉄道を経て、ビルマのラングーンまで鉄道で往復できることになった。だがそれはあくまで机上のことで、実際は中国軍ゲリラの攻撃が随所で起こり、まともに列車を運行させることは叶わなかった。

昭和19年11月、日本軍は桂林・柳州の連合軍の航空基地を攻撃。だがこのような事態になることを恐れたアメリカ軍は、10月に航空基地を爆破した上で撤収していた。
加えて連合軍の航空基地を掃討するという目的も、ある程度は達成することができたが、完成したB-29の航続距離は思いのほか長く、中国奥地の四川省成都にある米軍航空基地からでも、北九州一体が爆撃できた。昭和19年6月15日には、軍事産業が集まる北九州の八幡地区が空襲に晒されている。
さらに7月9日にはサイパン島が米軍の手に落ち、そこにB-29の基地が築かれたことで、日本本土の大半が爆撃可能となってしまった。そのため鉄道沿線の航空基地掃討という戦略は、意味を成さなくなった。
とはいえこの作戦は日中戦争最大の大攻勢であり、日本陸軍最後の大勝利となった。その結果、蒋介石の国民党軍は大打撃を受け、戦後に再燃した毛沢東の共産党との戦いが、不利となったことは否めない。

1945年、日本が無条件降伏を受け入れたことを祝し、祝杯をあげる毛沢東(左)と蒋介石。
この後、両者は国共和平・統一について議論し、内戦回避と統一政権樹立を確認。だが
翌年には早くも内戦が勃発している。