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南満州鉄道の成立ともに本格化 日本の大陸進出策【鉄道と戦争の歴史】

鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第10回】


まさに薄氷を踏む状態ではあったが、日露戦争で勝利をつかんだ日本は、本格的に大陸へ進出していくこととなった。その政策の文字通り牽引役となったのが、新たに設立された「南満州鉄道株式会社」であった。


大連の南満州鉄道本社ビル。設立にあたり株式は日清両国政府・日清両国人に限って所有を認め、初めは本社を東京、大連に支社を置くことと定めた。後に大連が本社、東京を支社に改めている。路面電車は大連電気鉄道。

 日露戦争に勝利した日本は、期待していた賠償金を得ることはできなかったが、「ポーツマス条約」と、それに連動した満州に関する「日清条約」により、次の権益を獲得した。

 

1関東州(中国東北部)の租借権

2ロシアが権益を持つ東清鉄道のうち長春~旅順区間の鉄道経営とそれに付随する権利

3安東~奉天間の鉄道経営権

4鴨緑江流域での木材伐採権

 

 日本政府は関東州の管理について、新たに旅順(りょじゅん)に関東都督府を設立してこれを治めることとした。鴨緑江流域の木材は、安東に鴨緑江保水公司を設立して対応している。そして鉄道に関しては、新たな鉄道会社を設立して対応することにした。それが明治39年(19061126日、半官半民で設立された「南満州鉄道株式会社(以下・満鉄)」である。

 

 その初代総裁に就任したのが、医師であり官僚・政治家としても辣腕をふるった後藤新平(ごとうしんぺい)だった。彼を推挙したのは、日露戦後に陸軍参謀総長の任に就いていた児玉源太郎(こだまげんたろう)大将である。児玉は台湾総督時代に「自分の下で台湾の鉄道経営を成功させた後藤の手腕ならばうまくいく」と考えたのである。

 

 児玉と後藤は、鉄道自体の経営だけでなく、鉄道に付随する行政権や鉱山の経営権といった、権益を有効に行使することを目指していたことでも共通している。そのために、設立する会社は、租借地と鉄道付属地を一元的に支配する国家機関であることが必要不可欠だと考えていた。満鉄が半官半民で設立されたのは、そのような考えがあったからだ。

満鉄の初代総裁を務めた後藤新平。須賀川医学校を出て医者となった。暴漢に刺された板垣退助を診察している。その際、板垣は「後藤を政治家にできないのが残念」と語ったという。後に優秀な官僚、政治家となっている。

 後藤に満鉄総裁の任に就くよう依頼した直後、児玉は急逝してしまう。江藤は最初に児玉からこの話を聞いた時、設立される新鉄道会社は、軍人が仕切る関東都督府の統制を受けることを知り、辞退しようと考えていたようだ。だが児玉が亡くなったことで、満鉄総裁就任を引き受けることにした。加えて満州開発の構想を実現するため、関東都督府顧問の地位兼任も、要求したのであった。

 

 こうして後藤は、満鉄を発展させることを通じて、日本の国益に沿った形で満州を開発していくことを推し進めた。後藤が在任していた約2年の間に、日本が満州全域に勢力を拡大していく足がかりを築く。また日本が生み出した最高のシンクタンクと呼ばれた「満鉄調査部」も、後藤の発案により設置された。

南満州鉄道では国際標準の1435mmという軌間を採用(日本国内は1067mm)。ロシアが採用していた1524mmという広軌もすべて国際標準軌に統一した。そのため日本国内で走る機関車より大型の機種が使われた。

 こうして満鉄は、後藤が描いた青写真通りに発展していった。それは単なる鉄道会社にとどまらず炭鉱の開発、製鉄業、港湾の整備と管理、電力供給、農林業や畜産の開発、ホテル経営と事業を広げていく。さらに大学以下の教育機関や研究所、そして後年には航空会社にまで手を広げている。

 

 加えて満鉄は、必要に応じ子会社まで設立している。運輸業では大連汽船という海運会社を設立し、大連港を起点として安東、天津、青島、上海、新潟、敦賀といった港を結ぶ定期航路を運航している。大連電気鉄道という子会社も作り、大連市内に路面電車を敷設している。当初は満鉄が行なっていた、大連や鉄道付属地の都市に対する電気やガスの供給も、後には南満州電気株式会社と南満州ガス株式会社を設立し、委託している。

満鉄はさまざまな事業を展開した。なかでも炭鉱開発や製鉄業には力を注いでいた。これらの産業は、日本の国力を高めることに直結していたからだ。写真は満鉄が経営していた撫順(ぶじゅん)炭鉱。

 こうして急成長を続けた満鉄が、大きな転換点を迎えたのは、昭和6年(1931)に起こった満州事変、さらにその翌年に満州国が建国されたことによってである。満鉄はこの時期、世界における満州の状況調査に始まり、満州事変勃発後の兵員輸送、満州国政府への社員の出向、満州国有鉄道の設立および委託経営、満州国の特殊会社への出資など、満州国成立のために尽力していたのである。

 

 こうして満州全土が日本の勢力下に入ると、鉄道付属地経営が意味を成さなくなり、昭和12年(1937)には満州国に返還された。そこで働いていた満鉄職員の多くは、昭和8年(1933)に成立していた満州国有鉄道へ移籍した。ただし満州国有鉄道は、満鉄に経営委託されていたため、日本の国策で動いていた。

満鉄は沿線の都市計画・建設も手がけていた。大陸への玄関口であり、満鉄本社が置かれた大連の開発には、とくに力を注いだ。見違えるような近代的な大広場が配置された大連は、欧米からの訪問者をも驚かせている。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、徳間書店勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。

 

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