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シベリア鉄道の輸送力不足が日本軍に幸運をもたらす【鉄道と戦争の歴史】

鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第7回】


開戦前に旅順要塞(りょじゅんようさい)を偵察しようとした日本軍参謀が大連の港で目撃したものは、続々と陸揚げされ鉄道で運ばれていったセメントなどの物資であった。このように日露戦争では、物資とその輸送力が重要視された、近代総力戦へのプロローグとなったのだ。


旅順要塞に向け、28センチ砲による砲撃を行う日本軍。砲弾が積まれている手前には、トロッコの物と思われる線路と荷車が写っている。鉄道部隊が敷設した線路で、軌間(線路の幅)が狭いことがわかる。

 乃木希典(のぎまれすけ)大将率いる第3軍は、明治37年(1905)8月19日にロシア軍が籠(こも)る旅順要塞に対し、早朝から激しい砲撃を加えた。だが日清戦争後、ロシアが運用するようになった要塞は、20万樽(1樽=約170キロ /当時は多くの国で樽にセメントをいれていた)を超えるコンクリートで固められた永久堡塁に様変わりしていた。砲撃の効果に自信を持っていた日本軍司令部は、翌20日に突撃部隊を投入。結果は鉄条網に地雷、大砲、機関銃の餌食となり、バタバタと倒されてしまう。

 

 旅順要塞の攻防戦はそれから5カ月近く続くが、その間にも日本軍は黒木為楨(くろきためもと)大将率いる第1軍、奥保鞏(おくやすかた)大将率いる第2軍、さらには野津道貫(のづみちつら)大将が率いた第4軍が8月末には満州の戦略的拠点である遼陽(りょうよう)に迫った。9月4日には遼陽会戦が勃発。第2軍が南から正面攻撃をかけている隙に、第1軍が東側の山を迂回してロシア軍の背後に進出したため、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させた。

野津道貫は薩摩の下級藩士の家に生まれた。戊辰戦争、箱館戦争、西南戦争、日清戦争のすべてで戦功を挙げている。日露戦争の軍司令官の中で筆頭格と見られていた。戦後に元帥の称号を贈られている。

 こうして日本軍は遼寧(りょうねい)を占領。鉄道部隊は戦闘部隊が満州の北へと進軍するのに合わせ、線路を北へと延伸していった。10月に入るとクロパトキンは、日本軍に対して反撃を命じた。兵員、弾薬とも十分な補給を受けたロシア軍は、質・量とも日本軍を凌駕しているはずであった。しかし、沙河会戦(さかかいせん)と呼ばれる戦いは、日本軍の勝利に終わる。河が凍結したこともあり、それからしばらくは両軍とも沙河を挟んで対陣を続けることとなった。

沙河会戦の後、日露両軍は河を挟んで睨み合いとなった。塹壕に身を潜める日本兵にとって、ロシア兵同様に難敵となったのが、大陸特有の底冷えであった。大地がガチガチに凍りついてしまい、穴が掘れないのである。

 この間も旅順では激しい攻城戦が繰り広げられていた。9月、10月、11月と総攻撃を繰り返したが、日本側の被害が増えていく。そこでようやく乃木司令官は攻撃の主点を203高地に変更。激しい争奪戦が行われたが、203高地方面に重砲隊を移動。12月5日から重砲の砲撃と突撃の成果で、ようやく203高地を奪取した。以後、各堡塁がひとつずつ陥落し、明治38年(1905)1月1日、ついにロシア側は白旗を上げたのであった。

旅順港を見下ろすことができる位置に聳える203高地。現在は樹木に覆われているが、日露戦争の頃は人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていた。写真は海軍軍令部が編纂した『明治三十八年海戦史』の第二巻に掲載。

 旅順要塞が陥落すると、ロシア軍首脳部には焦りの色が出始めた。乃木第3軍が北部戦線に合流し、日本軍の戦力が増強されることを恐れたのだ。だが日本軍は、旅順要塞攻略に大量の砲弾を使用したため、極端な砲弾不足に陥っていた。この時、ロシア軍側も兵員不足に頭を悩ませていたのだ。

 

 ロシア側の主要補給手段であったシベリア鉄道は、この当時はまだ単線であったため、兵員や物資を満州まで運んだ貨車を欧州側に戻すために線路を開ける必要があった。だがそれでは間に合わないので、満州に着いた貨車はそのまま放置されたのだ。こうした努力にもかかわらず補給は追いつかず、兵員のための糧食や衣服は劣悪な状態となっていた。

降伏のために旅順水師営を訪れたロシア軍の旅順要塞司令官ステッセル中将(中列右から2人目)。その左隣が乃木希典第3軍司令官。現在は水師営の建物は再建だが、この写真の背後に写る壁は当時のままである。

 明治38年1月25日未明、沙河で対陣していたロシア軍は、約10万の兵力を繰り出し日本軍最左翼に陣取っていた秋山支隊(秋山好古/あきやまよしふる/少将麾下の騎兵第1旅団に歩兵、砲兵、工兵を加えた約8000名の兵団)に襲いかかった。

 

 秋山支隊は李大人屯(りたいじんとん)、韓山台(かんざんだい)、沈旦堡(ちんたんほう)、黒溝台(こっこうだい)の4カ所を拠点にして、長さ30キロメートルにも及ぶ防衛線を構築し、頑強に抵抗した。しかしさすがにどこも兵員の層は薄く、優勢なロシア軍に攻撃されると、たちまち苦境に立たされてしまう。

 

 秋山少将は敵情偵察により、この攻撃を予測し連日、満州軍総司令部にロシア軍攻勢の情報を知らせていた。麾下(きか)の騎兵隊による偵察で、敵の前哨活動が活発なのを察知し、何か大作戦が行われる予兆と見ていたのだ。

 

 さらに満州の総司令部には、同盟を結んでいたことで、イギリス軍情報部から「ロシア軍が列車による補給活動を活発に行なっている」という情報ももたらされていた。ところが総司令部は「厳冬期の大規模攻撃はない」という、根拠のない観念にとらわれていたため、それらの情報を黙殺したのだ。

「日本騎兵の父」とも呼ばれる秋山好古大将。写真は日露戦争頃のもの。騎兵部隊に歩兵、砲兵、工兵などを随伴させる戦闘集団を形成し、世界最強と謳われたロシア軍のコサック騎兵を相手に五角以上の戦いを見せた。

 慌てた総司令部は予備隊の第8師団を援軍として投入。しかし第8師団司令部が敵情判断を誤ったため、秋山支隊は黒溝台を放棄することになってしまう。さらに第8師団も敵に包囲され、援軍の体を成さなくなった。

 

 第2軍は麾下の第3師団を派遣、兵力逐次投入という愚を犯した。結局28日に右翼の第3師団は、韓山台を包囲する敵を撃退。第5師団がその左翼の敵を攻撃。第2師団が第8師団を包囲していた敵を退けた。さらに夜襲で敵を蹂躙(じゅうりん)する。こうして黒溝台会戦で日本軍は、かろうじて勝利を収めたのであった。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。

 

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