海を知り尽くした和船の完成形「弁財船の登場」 海上輸送ネットワークの発展で和船はピークを迎える
海洋国家日本を支えた和船の歩み
徳川家康により、戦国時代に終止符が打たれると、日本国内の海運業は飛躍的な発展を遂げてゆく。それはひとえに物資を運搬している船が、その途中で海賊に襲われたり、海上で起こった合戦に巻き込まれる心配がなくなったことが、大きな要因となっていた。

江戸時代後期の天保7年(1836)、円覚寺に奉納された弁財船の船絵馬。大きな1枚の帆が風をいっぱいに受け、海上を進んでいく様子が描かれている。緊急用小舟の大きさから弁財船のサイズが想像できる。
江戸時代の海運は、各地の大名領や幕府領で生産された米を江戸や大坂に搬送し、それを換金する必要から発達していく。そのため航路の開発も、全国規模で築かれていった。こうして東廻りと西廻りの航路が確立した。
なかでも上方と江戸を結ぶ航路は、当代一の幹線航路として多くの船が行き来するようになっていた。当時の江戸は政治の中心地、対して大坂は天下の台所と呼ばれたほど、商業が発展した都市であった。商魂たくましい上方(かみがた)商人たちは、競って物資を江戸に急送できる航路や船舶を開発したのである。
この上方と江戸を結んだ随一の人気航路には、大坂から木綿や油などの日用品を運んでいた「菱垣廻船(ひがきかいせん)」や、灘や伏見といった酒造業が盛んな地から江戸へ、酒を専門に運んだ「樽廻船(たるかいせん)」など、さまざまな廻船が行き来して、人々の生活を支えていた。
ちなみに「くだらないもの」という言葉の語源は、江戸に下ってこない質の悪い酒のことを指した。それが転じて「つまらないもの」「取るに足らないもの」という意味で使われるようになったと言われている。

1860年頃に撮影された弁財船。右側が船首で先端部分を舳(みよし・舳先)と呼ぶ。舵がある左側の船尾は艫(とも)と呼ばれた。ここに波を受けるのが、船では一番危険なことで「まともに喰らう」の語源となった。
“くだらない!?”余談はさておき、江戸時代は廻船による大量輸送が、通常のこととなったわけだ。その立役者となるのが弁財船(べざいせん/千石船[せんごくぶね])という、江戸期の海運を支えた大型船である。その最大の特徴は、櫓を使わないこと、つまり推進力は風の力による“帆走専用船”だったということだ。
この弁財船は、前出の菱垣廻船や樽廻船のような、たくさんの地方型や派生型が生み出されている。船の形を見れば、その目的や積荷がある程度わかってしまうほど。江戸時代の中期以降に大坂と蝦夷地(えぞち/現在の北海道)を結んだ北前船(きたまえぶね)も、弁財船を使った代表的な廻船のひとつだ。
北前船の航路は日本海。船主は荷主も兼ねていた買積船(かいづみせん)、つまり自分の船に自分が買った荷を積んで運び、商売をするという形態の船を指していた。使われた船は船首と船尾が大きく反り上がっていて、胴の間も大きく膨らんでいる。そのため、一目で北前船と判別できたという。この形になったのは、荒れやすい日本海の波を切り裂くように航行するためと思われる。そしてもうひとつ、できるだけ多くの積荷を運ぶためであった。
ここでも脱線してしまうが、カヤックという船の話をしたい。この船はもともと北米のイヌイット(かつてエスキモーと呼ばれた)が考案した、酷寒の海でアザラシを狩猟するための小舟だ。下半身をスッポリ船体内に入れ、コクピット上部をアザラシの皮でできた覆いで塞いだスタイル。左右に水をキャッチするブレードが付いた、パドルで進む。

イヌイットがアザラシ漁に使用するために考案したカヤックに、もっとも近いスタイルなのが海を旅するためのシーカヤックだ。波切性と直進性を高めるために、船首(バウ)が尖っている。全長が長いのも特徴。
この船は、日本ではカヌーと呼ばれることが多い。厳密に言えばカヤックとカヌーは別物だが、それはここでは問題ではない。現在のスポーツやレジャーで使用するカヤックはいくつもの種類があるが、昔から使われてきた代表的なものは海で使うシーカヤックと、流れの激しい川で使うリバーカヤック。その違いは形を見れば一目瞭然なのだ。
同じカヤックでも海で使うものは、波切性をよくするため船首を尖らせたうえ、やや反った形としている。一方のリバーカヤックは急流でも素早く動けるように、直進性よりも回転性の良さに重点を置いている。

オリンピック競技にも採用されているスラロームカヤックは、急流で自在にコントロールしやすいように回転性が重視されている。こうした違いは、江戸時代に使われていた沿岸用の船舶と川船の形の違いとも共通する。
これと同じ考え方で、北前船は荒波にも負けない直進性を確保するため、船首船尾が反り上がっていたと思われる。これに対してか川や湖の水運を担っていた高瀬船は、帆走と櫓(やぐら)を併用した木造船で弁財船と形は似ているが、よく見れば幅が狭く喫水は浅い。これは川や湖の水深が浅いことと、素早く障害物を避けられるように工夫・発達した結果だと考えられる。海用と川用でカヤックの構造が違うことと、共通するものが感じられる。

葛飾北斎は『富嶽三十六景常州牛堀』で、高瀬船を描いている。牛堀は霞ヶ浦南端の水郷で、富士山が見える東端に近い。手前に描かれた船出前の高瀬船では食事の支度中のようで、船が生活の場だったことがわかる。