老いた母親を口減らしのために山に捨てる… 『更級日記』や『枕草子』にも記された「姥捨伝説」とは?
日本史あやしい話
■『更科日記』や『枕草子』に記された姥捨伝説とは?
興味深いのは、この姥捨伝説が、かの菅原孝標女が著した『更科日記』や清少納言の『枕草子』にまで記されていることである。『更級日記』では、著者である菅原孝標女が夫亡き後、ひとり寂しく暮らしているところに、甥がひょっこりと訪ねてきてくるシーンに登場する。甥の来訪を喜んだ彼女が、「月も出て闇にくれたる姨捨に なにとて今宵たづね来つらむ」と、喜びを姨捨に託して詠んだのだ。まるで姥捨山に住むかのような私のような老婆のもとに、どうして訪ねてきてくれたの?とでも語りかけているかのような面持ちである。彼女が実際に姨捨山に住んでいたわけではないものの、自らの寂しい境地を悲しい伝説に彩られた姥捨山になぞらえたのだろう。
ちなみに菅原孝標女といえば、かの菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の娘である。30代で橘俊通と結婚(1040年)。1057年には夫が信濃守として単身赴任するも、翌年に卒去。以降、寂しさを紛らわすかのように書き始めたのが『更級日記』だったと言われる。まるで山に一人置き去りにされたかのような寂しさをそう言い表したのだろうが、実のところ、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた庶民の感覚とは、大きく異なるというべきだろう。庶民は、そんな感傷に浸っている余裕さえなかったに違いないからだ。
また、『枕草子』に姥捨山の名が記されていることにも目を向けておこう。ここでは、中宮定子の弁として、「姥捨山の月は 如何なる人の見るにか(姨捨山の月は、いったいどんな人が見たのかしら)」と、女房たちとの戯言として登場する。発言者である定子に罪はないとはいえ、冒頭の『楢山節考』に描かれた悲惨さを思い出してしまうと、どうしてもその軽薄さが気になってしまうのだ。談笑として気安く語って欲しくないと、つい愚痴りたくなってしまうのは、筆者だけだろうか。
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