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朝ドラ『あんぱん』弟の戦死を悲しむより大事なことがあった… 復員後のやなせたかし氏が陥った「無気力状態」とは

朝ドラ『あんぱん』外伝no.51


NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』は、第15週「いざ!東京」が放送中。高知新報の新人記者となったのぶ(演:今田美桜)。そして嵩(演:北村匠海)もまた高知新報の入社試験を受けにきた。ところが緊張して面接ではしどろもどろに……という展開だ。さて、史実においてこの頃のやなせたかし氏はどのような状況にあったのだろうか。


■「復員ぼけ」で無気力状態…弟の戦死も実感できず

 

 昭和20年(1945)8月15日、正午の玉音放送で、ポツダム宣言の受諾と日本の降伏が国民に公表された時、やなせたかし氏(本名:柳瀬 嵩)は、中国にいた。その約7カ月後に復員船の順番が回ってきて、無事に故郷の高知に戻っている。

 

 後免町の柳瀬家に帰った嵩さんを迎えたのは、母代わりとなって育ててくれた伯母・キミさん(伯父・寛さんの妻)と叔母・繁以さん(寛さんの妹)だった。戦後の混乱のなかで自分が生還したことも、これから家に帰るということも伝えられないままの帰宅だったため、2人の女性は嵩さんの姿を見て泣き崩れたという。

 

 同時に、嵩さんに告げられたのは、海軍少尉だった弟・千尋さんが戦死したという事実だった。千尋さんは嵩さんが中国に行く前、小倉にいた頃に一度訪ねてきたそうだ。そこで兄弟は久しぶりに言葉を交わした。やなせたかし氏の著書『やなせたかしおとうとものがたり』に収録された詩の一遍にはその時のことが記されている。それによると、千尋さんは「自分はもうすぐ死んでしまうが、兄貴は生きて絵を描いてくれ」と言い残したという。

 

 そんなこともあり、しかも夢によく千尋さんが出てきていたために嵩さんにはどこか予感めいたものがあったらしい。戦死を告げられても「やっぱりそうか」としか思わなかったと述懐している。

 

 千尋さんの遺骨は戻らず、骨壺の中には名前が記された小さな木片だけが納められていた。嵩さんたちは近くの山にある柳瀬家の墓地にそれを埋葬したという。それでも、弟の戦死は実感を伴わなかった。

 

 復員後の嵩さんは、通常の倫理観や常識が通用しない戦争を体験し、長く軍にいたことで“後遺症”のようにその反動がきたらしい。全てが命令で動く軍隊に慣れきっていたため、自分で思考し自発的に行動することができなくなっていた。考えようとしてもうまくまとまらず、しばらくは茫然自失の日々だったという。これを著書で“敗戦ぼけ”や“復員ぼけ”と表現している。

 

 幸い、柳瀬家は衣食住には全く困らなかった。畑で野菜を収穫し、親戚から米を入手し、衣類を高く売ることで金銭的にも困窮することなく暮らせていたという。とはいっても、入手できるものにも限りがあるし、生活していくだけでも大変な時期である。

 

 そういう状態だったので、千尋さんの戦死を受け入れることも、それを悲しむことも十分にできなかった。それができるようになったのは、もっと後になってからのことだったという。著書『ぼくは戦争は大きらい: やなせたかしの平和への思い』では、「そんなことよりも自分が生きるのが精いっぱいだった」と当時を振り返っている。

 

 復員後しばらくして廃品回収の仕事を手伝うようになったのも、戦友から誘われたから…つまり自発的な行動ではない。ただぼーっと家にいても仕方がないし、仕事内容は米兵のゴミを回収し、そこから使えるものをリサイクルして販売するというルーティンが明確で思考能力はいらなかった。

 

 しかし、その仕事でアメリカの雑誌や書籍を目にしたことが嵩さんの心を動かすことになった。見たこともないような洗練された装丁や斬新なデザイン、挿絵などを見るうちに、デザインや絵の仕事への意欲が再びわいてきたのである。そして「知的でクリエイティブな仕事がしたい」と思い始めた嵩さんの目に飛び込んできたのが、高知新聞社が出した新人記者募集の記事だ。これがその後の人生を大きく変える転機となった。

イメージ/イラストAC

<参考>

■やなせたかし『ぼくは戦争は大きらい: やなせたかしの平和への思い』(小学館クリエイティブ)
■やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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