朝ドラ『あんぱん』夫の死後わずか8日で女性記者を志し… 小松暢さんの半生と新聞社への就職という選択
朝ドラ『あんぱん』外伝no.48
NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』は、第13週「サラバ 涙」が放送された。のぶ(演:今田美桜)は、闇市で出会った高知新報の東海林(演:津田健次郎)の言葉を信じて同社を訪ねるが、当の本人は酒に酔って覚えていない。結局採用試験を受けるのぶだったが、かつて“愛国の鑑”として取り上げられたことを突き付けられ、今の自分の気持ちを率直に打ち明ける。そして、東海林の口添えもあり、無事に高知新報への就職を決めるのだった。さて、いよいよここからはモデルである小松暢さんの史実と重なっていく。今回は暢さんの半生、就職に至るまでの道を振り返ろう。
■わずか7年の結婚生活を経て、戦後の日本で女性記者という生き方を選ぶ
朝ドラ『あんぱん』のヒロイン・のぶのモデルとなった暢さん(出生時の姓は池田)は、大正7年(1918)に大阪府大阪市天王寺区で誕生した。父は池田鴻志さんという。高知出身で、当時国内有数の一大商社として名を馳せた鈴木商店で重要な役職を歴任したエリートサラリーマンだった。
一家はモダンで比較的裕福な暮らしをしていたようだ。暢さん自身も、幼少期から毛皮のオーバーコートのようなモダンな洋服を着こなし、バイオリンやピアノの稽古にも励んでいたという。まさに“お嬢様”というイメージだ。
暢さんは6歳の時に父を亡くしたものの、不自由のない生活をおくって学業にも勤しんだ。大阪府立阿部野高等女学校を卒業しており、女学校時代には短距離走選手として「韋駄天おのぶ」の異名をとった。音楽と運動両方の才能があり、明るく快活な少女だったらしい。
そんな暢さんが最初の夫である小松総一郎さんと結婚したのは、昭和14年(1939)のこと。暢さんは20歳、総一郎さんは26歳だった。日本は日中戦争の真っ只中である。
総一郎さんは高知県出身。神戸高等商船学校を卒業し、日本郵船に勤めるエリートだった。総一郎さんの仕事に合わせて2人は東京や大阪で結婚生活をおくったが、総一郎さん自身が船に乗っている期間が長く、2人で過ごす時間はそれほど長くはなかったらしい。
そして昭和16年(1941)に太平洋戦争が開戦。総一郎さんは一等機関士として徴用されることになった。高知新聞の取材によって、大型貨物船「松本丸」で原油の輸送任務についていたことがわかっている。
ところが、昭和18年(1943)に病に倒れ、船を降りて故郷・高知に戻ることになった。高知市内での療養生活は、3年にわたる。そして終戦から5ヶ月が過ぎた昭和21年(1946)1月、総一郎さんは33歳という若さでこの世を去った。暢さんはこの時27歳である。
徐々に復興の道を歩み出した高知の地で、暢さんは夫の死をただ悲しんではいられなかった。総一郎さんの死から8日後、高知新聞で女性記者の募集記事を見て受験を決意したのである。暢さんには総一郎さんが生前に贈ってくれたライカのカメラと、小松家の支援で身に着けた速記の技術があった。記者になるにはうってつけだったのである。
この時、高知新聞社の入社試験を受験した女性は31人。そのうち合格したのは2人で、暢さんがその1人に選ばれた。そして、同年2月に高知新聞社に入社し、同社における戦後初の女性記者の1人として新たな一歩を踏み出したのである。

イメージ/イラストAC
<参考>
■高知新聞社編『やなせたかし はじまりの物語: 最愛の妻 暢さんとの歩み』
■やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)