朝ドラ『あんぱん』母・登喜子さんは戦時中どこで何をしていた? 夫に先立たれ、息子の1人は戦死という悲劇
朝ドラ『あんぱん』外伝no.50
NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』は、第14週「幸福よ、どこにいる」が放送中。高知新報の新人記者として慌ただしい毎日を過ごすのぶ(演:今田美桜)。一方、嵩(演:北村匠海)は廃品回収の仕事で目にするアメリカの雑誌やイラストに心惹かれていた。その様子を間近で見ていた辛島健太郎(演:高橋文哉)は、仕事で見つけた万年筆を誕生日プレゼントとして贈り、「漫画を描けばいい」と背中を押す。それぞれの「戦後」が描かれているが、ドラマで大注目されてきた母は、史実ではどこで何をしていたのだろうか?
■故郷に戻るも、思考力が低下して自発的に動けない……
やなせたかし氏(本名:柳瀬 嵩)の実母・登喜子さんは、父・清さんと同郷で大地主の家に生まれ、都会的で華やかな家庭環境で育った“お嬢さま”である。高知県立第一高等女学校に在学中に結婚するも、間もなく離縁。実家に戻った登喜子さんの2度目の結婚相手が清さんだった。そして、嵩さんと千尋さんという2人の息子にも恵まれた。
寛さんの死後、千尋さんは伯父にあたる寛さん夫妻の養子となり、登喜子さんは嵩さんと実母・鐵さんとの3人暮らしを高知市内で始める。お嬢さま育ちながら必死で自活の道を探っていた登喜子さんは、お茶や生け花など様々な習い事をこなした。身に着ければ、人に教えることで生計を立てられるからだ。
その後、嵩さんが小学校2年生の時に、東京在住の官僚と3度目の結婚。嵩さんは寛さん夫妻の元に預けられ、母子は別れることになった。とは言え、親子としての交流は細々と続いていたようである。
登喜子さんは、3人目の夫にも先立たれてしまう。ただ、世田谷にあった家を遺してもらっていたこともあり、そこで1人悠々自適な暮らしをしていたようだ。後に、旧制専門学校・東京高等工芸学校の図案科(現在の千葉大学工学部)に進学した嵩さんが下宿先で家賃をごまかされたと聞いた登喜子さんは、すぐに息子を自分の家に呼び寄せたという。在学中は、幼少期に失われた母子の暮らしを取り戻したということだろう。
さて、嵩さんはその後出征することになるが、戦時中の登喜子さんはどこで何をしていたのだろうか? 戦争が激化し、東京も常に空襲の危険に晒されていたはずである。その答えは、高知新聞社の取材によって明らかになった。戦時中、登喜子さんは東京を離れ、故郷の在所村(現在の高知県香美市)に疎開していたというのだ。生家の近くにある小さな家で一人暮らしをしていたらしい。
登喜子さんを支えたのは、かつて身に着けた生け花や茶道だった。疎開して以降、生け花や茶道の先生となって生徒に教え、自活していたという。また、一人暮らしということもあってか、子どもたちの遊び場にもなっていたようで、地元の人々からも頼りにされ、子どもたちからも「東京帰りのオシャレで上品なおばさま」として受け入れられていたようである。そんな暮らしは戦後まで続いた。
2番目の夫を亡くし、2人の息子と別れ、そして3番目の夫にも先立たれた。登喜子さんの人生は、そんな悲しい別れが多い。そして、追い打ちをかけるように下の息子である千尋さんが戦死したという事実が突き付けられたのである。それを聞いた時の登喜子さんの悲しみと絶望は、筆舌に尽くしがたいものがある。千尋さんは幼い時に養子に出されてはいたものの、大学在学中に一緒に撮った写真が残るなど、交流はあった。愛する息子が戦死し、遺骨さえ戻らなかったという現実は、どれほど登喜子さんの心に傷を負わせただろう。
そんな絶望のなかで戦争が終わり、登喜子さんにもやっと吉報が届いた。残された上の息子、嵩さんが無事に復員してきたのである。嵩さんが出征して以来、母子は数年ぶりに再会を果たしたのだった。

イメージ/イラストAC
<参考>
■やなせたかし『ぼくは戦争は大きらい: やなせたかしの平和への思い』(小学館クリエイティブ)
■やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)
■高知新聞社編『やなせたかし はじまりの物語: 最愛の妻 暢さんとの歩み』
■高知新聞PLUS
https://www.kochinews.co.jp/article/detail/858451
https://www.kochinews.co.jp/article/detail/852684