真田信之・信繁 兄弟の支え合い、危機を乗り越え合った“忠義と絆”とは⁉─戦国兄弟秘話─
戦国最強兄弟武将ランキング#01
戦国の兄弟の絆は戦場に限った話ではない。ともに死線をくぐった経験は少ないながらも、時に離れた場所で、時に書状で、時に他国との交渉で協力し合った兄と弟も少なくない。そうした目に見えない形で協力し、非情な世を生きた兄弟たちの軌跡をたどる。

真田幸村像
■真田信繁は豊臣に忠義を尽くす運命にあった
永禄9年(1566)に生まれた真田信之(さなだのぶゆき)は、物心がついた頃から元服のやや後まで、武田家の人質となっていた。だが、天正10年(1582)に武田家が滅亡し、旧姓に復していた父・真田昌幸(まさゆき)のもとへ帰った。
一方、弟の信繁(のぶしげ/真田幸村)は、その天正10年、滝川家の人質とされている。武田家を滅ぼした織田家に恭順したためで、信長に遣わされた滝川一益に、ついで木曽義昌に預けられた。だが、本能寺の変が起こって織田家が混乱し、真田昌幸は独立を画策、その後ろ盾を得るべく、今度は上杉景勝の人質とされ、やがて織田信長の後を継いだ羽柴秀吉の人質とされた。
信繁にしてみれば、たまったものではなかったろう。人質としてあちらへこちらへ実にめまぐるしく差し出され、せっかく真田家へ帰ってきた兄とはほとんど暮らせず、元服すぎまで秀吉のもとに置かれた。
安土桃山時代の掟といってもいいが、小名が大名に臣従するとき、その証として子を人質として差し出す。人質とされた子は、やがて烏帽子親となるであろう大名に仕え、忠義の心を養わされる。信繁と秀吉は、そういう関係だった。
掟は、まだある。子が長じて婚姻する際だが、格下の小名から格上の大名へ嫁ぐことはない。格上の大名から格下の小名の元へ、実の娘あるいは養女が輿入れする。大名は小名の息子の舅となり、婿の去就の権を握る。信之と徳川家康が、そういう関係だった。家康が、股肱の本多忠勝の娘・小松(こまつ)を養女として信之の正室にさせたのがそうで、つまり、家康は信之の義理の舅となっている。
信繁もまたそうで、秀吉の元にあったとき、豊臣家に従属していた大谷吉継の娘(のちの竹林院)を娶めあわせられ、正室としている。これにより、大谷吉継は信繁の舅となった。
そうである以上、舅による戦さに婿として参陣するのは当たり前のことで、秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いも例に漏れない。会津征伐に赴いた小山評定の夜、のちに「犬伏の別れ」と呼ばれる真田家の分裂がそうで、徳川家康の婿の信之は徳川勢に、大谷吉継の婿の信繁は石田三成と呼応するごとく反徳川勢に身を置くのは、自明の選択だった。
真田の家名を存続させるための戦略などというものではなく、武家として当然のなりゆきといっていい。
■徳川家康に忠誠を尽くしつつも弟に心を寄せていた兄
ただ、この兄弟の場合、ほとんど、ともに暮らし、ともに戦うということはなかったものの、心の紐帯は深く固いものだった。その証しとなるもののひとつが、第2次上田合戦である。「犬伏の別れ」からさほど時を置かずに勃
発したこの籠城戦では、上田城の支城となる砥石城に信繁が籠こもっていたのだが、徳川秀忠によって信之が攻略に遣わされるや、弟は兄と争うのを避けるようにさっさと撤退して父・昌幸の籠もる上田城に入った。
またひとつが、関ヶ原の戦いが終焉したのちの情景である。信之は、九度山に幽閉された昌幸と信繁の暮らし向きを案じ、あれこれ援助し続けている。さらにいえば、のちの大坂の陣においても、信之は病と称し、信繁の待ち構える大坂への出陣を拒んだ。実際のところ、信之は家康には忠誠を尽くしたものの、肚の底では父や弟と常に心をひとつにしていたとおもわれる。
真田家が松代に移封されて明治を迎えるまで、他者には絶対に見せてはならないとされた長持(ながもち)の中に信之への石田三成の書簡があまた秘蔵されていたことが、如実に物語っている。
監修・文/秋月達郎