大坂の陣で包囲網を突破したキリシタン武将【明石全登】とは!?─大坂牢人五人衆のひとりに数えられる猛将─
知っているようで意外に知らない「あの」戦国武将たち【第34回】

明石全登(国立国会図書館蔵)
豊臣政権で5大老の1人に名を連ねた宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、備前・美作・備中東部57万4千石の大大名であった。備前は法華宗(日蓮宗)の信徒が多い土地柄であったが、秀家自らはキリシタンに改宗し、領民や家臣にも改宗を強いた。これに、宇喜多家内部の武断派と吏僚派による対立も生じていた。武断派は譜代門閥であった坂崎成政・花房職之・戸川達安らであり、吏僚派は譜代ではなく近習上がりの浮田太郎左右衛門、秀家の妻・豪姫に前田家から付き従ってきた長船綱直らであった。結果として、秀家はこれら武断派を追放することになる。代わって台頭した吏僚派は、すべてキリシタンに改宗している。
こうした御家騒動が、宇喜田家内に動揺と不安を与えた。そこで秀家は、思い切って家臣団の1人で、しかもキリシタン(洗礼名はジョバンニ)であった通称を掃部頭(かもんのかみ)といった明石全登(あかしてるずみ)を、筆頭家老として起用した。
全登は、不思議なことに生没年が不明の人物であるが、父は宇喜田家の家臣でる保木山城主・明石景親、母は秀家の父・直家の異母妹である洗礼名・モニカと伝えられる。全登の妻も、直家の娘であったから、秀家とは義兄弟になる間柄であった。全登は、父の後を継いで保木山城3万3千石の城主であった。この全登が、この後は宇喜田家の治世・軍政に采配を振るうことになる。
一時は豊臣秀吉の養子にもなったことがある秀家であったから、豊臣家には大きな恩顧があった。やがて、その豊臣秀吉が逝き、徳川家康が勢いを増した。それが「関ヶ原合戦」に繋がる。秀家は、当然のことながら西軍・石田三成につく。西軍最大の兵力である1万7千を擁した宇喜多勢は、関ヶ原では迷いなく東軍と敵対する中央最前線に堂々と布陣した。そして慶長5年(1600)9月15日早朝、宇喜田陣営からの攻撃で戦闘が開始された。明石全登の指揮で、宇喜多勢は福島正則軍とぶつかった。関ヶ原合戦で、最も激しい戦い、とされる激突であった。
一進一退の激闘の最中、味方であるはずの小早川秀秋の1万5千が、突然東軍に寝返った。秀秋も一時は秀吉の養子であった関係から秀家は、秀秋とは親しかった。その秀秋の裏切りである。怒った秀家は、小早川陣営に単騎で躍り込むと意気込んだ。それを止めたのが全登であった。「再度の決戦に備えて命を惜しみ、戦場離脱を謀るべし」というのが明石全登の説得であった。秀家は、その言葉に従って戦線を離脱し、遠く薩摩に逃げ延びることが出来た。
そして、全登は東軍の黒田長政の陣営を訪れて降伏を申し出た。長政と父・黒田如水(くろだじょすい)は全登と血縁関係があり、その縁を頼ったのである。全登は許されて出家し「道斎」と名乗る。
さらに時間が経過して、慶長19年(1614)、大坂の陣勃発の直前、明石全登は大坂方から誘われ、大坂城入りを果たす。時代が明石全登という存在を放ってはおかなかったのである。そして翌年、大坂夏の陣では真田信繁、後藤又兵衛らを援護して徳川軍と戦った。細川忠興も国許への書状で、真田・後藤と並べて「明石掃部(かもん)手柄にて」と記すほどであった。しかし大坂落城後、唯一徳川方の重包囲網を突破した全登の消息は、ぷつりと途絶えたままであるという。