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中国地方の覇者として「11州の太守」と呼ばれ、戦国を代表する謀将【尼子経久】とは⁉

知っているようで意外に知らない「あの」戦国武将たち【第32回】

 

月山富田城跡に立つ尼子経久像

 

 戦国時代の下剋上を象徴する武将たちがいる。伊勢(北条)早雲・斎藤道三などが、代表的な存在だが、中国地方には「出雲(いずも/島根県東部)の狼」と怖れられた尼子経久(あまごつねひさ)もまた、そうした謀将の1人であった。この北条・斎藤・尼子の3人が特に「戦国下剋上の3謀将」とも呼ばれる。

 

 尼子経久は長禄2年(1458)、出雲守護代・尼子清定(きよさだ)の嫡子として生まれた。父・清定は、守護・京極家を支え、数々の武功を上げた武将であった。経久自身も、若い頃から父に従って戦地に赴き、勇猛果敢に戦う武将として人々の記憶に残る存在であった。応仁の乱にも出陣している。その応仁の乱での経験によって、朝廷や幕府など既存の勢力・権力が腐敗・形骸化していることを知った。

 

 20歳で、尼子家を継ぐと、経久は守護・京極家との親密な関係を絶つ。守護家の命令を無視し、守護代に課された納税や使役などすべてを拒否したのだった。さらに、出雲の寺社領などを横領し、関所も勝手に取り扱うなど自らの勢力拡大に動いた。この時点で経久は、戦国武将として自立する腹を固めていたのだった。

 

 こうした独自の振る舞いが、守護・京極家の怒りを買い、周辺の国人領主などからも反感を買ってしまった。その結果、居城・月山富田城を逐われることになる。経久は、20歳代半ばで自信を失い、挫折を経験した。浪々の身となった経久は、しかし放浪生活の中で、ポジティブの指向を目指し、富田城奪還を目的にした。そうすることで、僅かながらも同志を募ることが出来た。経久の前向き指向に、着いてくる若者が多くいたことになる。

 

 2年後の文明18年(1486)1月、経久は「元旦」の祝日の隙を見て挙兵し、奇襲戦を敢行した。その結果、700もの敵勢を討ち取り、その首をすべて(中には女・子どもの首もあったという)河原に晒した。

 

 若い頃には京都で学問や文化にも触れて、文武両道の人といわれた経久であったが、一転してこれ以後は残忍さだけが目立つ「鬼」「狼」と呼ばれるようになる。しかし、経久はこの後も非情と下剋上を実施する。その方法は奇襲と騙し討ちであって、遂には出雲国内を統一し、守護・京極家を排除した。この下剋上は、永正5年(1508)の出雲守護家に任命され、尼子家は再起を果たした。

 

 守護となった経久の勢いは、その後も止まらず中国地方に大きな勢力を持っていた大内氏との抗争が始まった。この時期には、毛利元就も経久の傘下にあって、大内との戦いにも宣戦していたほどである。経久の大内戦略も、謀略と奇襲によるものが多く、怖れとともにその武名は上がるばかりだった。

 

 経久が手に入れた中国地方の国々は、出雲を基盤にして隠岐・伯耆・因幡・石見・備後・備中・備前・美作・安芸・播磨と、11カ国に及んだことから「11州の太守」と呼ばれるに至った(だが、これは誇張であって本当は出雲・隠岐と石見・安芸・備後・伯耆の一部を領していたという説もある)。

 

 こうして尼子氏は絶頂期を迎えたが、信頼してきた毛利元就が大内氏に着くと勢いが止まる。身内からの反乱もあって経久の戦略に狂いが生じた。80歳を超えた経久は、家督を孫の尼子晴久に譲ったが、その行く末を見ないうちの天文10年(1541)1月13日、84歳の長い生涯を閉じる。大内氏、尼子氏の後に中国地方の覇者となったのは、毛利氏であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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