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めっちゃ強い!? あの武田信玄を2度も破った信濃最強の武将・村上義清【知っているようで知らない戦国武将】

知っているようで意外に知らない「あの」戦国武将たち【第1回 村上義清】


信長・秀吉・家康・信玄・謙信など英雄ともいわれる戦国武将はよく知られているが、彼ら英雄たちに絡んで戦国時代を彩った武将たちは、どういう人物でどういう生き方をしたのかは意外に知られていない。知っているようで意外に知られていない「あの」戦国武将たちを紹介しよう。第1回は信濃で勢力をもち、あの武田信玄を苦しめた強者・村上義清(むらかみよしきよ)を紹介。


村上義清(『川中島軍記』/国立国会図書館蔵

 武田信玄(当時は晴信)は、天文10年(1541)、父親の信虎(のぶとら)を駿河に追放し、既に信虎が着手していた北信濃の征服に取り掛かった。この信玄に立ちはだかったのが、信濃最強といわれる武将。村上義清であった。義清は文亀元年(1501)生まれで、信玄より20歳年長である。

 

 元来が、信濃国は300を超える小豪族がいて、その中心にいたのが、北辰の村上、中信(筑摩地方)の小笠原長時(おがさわらながとき/信濃守護職)であった。いずれも、武田氏と同様先祖に清和源氏の血を引く。義清は、源頼信(みなもとのよりのぶ/新羅三郎義光の祖父)の系統で、長時は新羅三郎義光の血筋である甲斐源氏・加賀美遠光・小笠原長清(ながきよ)の直系である。この源氏ゆかりの3者が、信濃の経略を巡って争ったのが、信虎・信玄時代の武田・村上・小笠原氏であった。

 

 信玄は、力押しする前に信濃の小豪族を調略し、徐々に見方を増やしていった。しかし、完全に信濃を手に入れるためには、どうしても村上・小笠原は駆除しておかなければならなかった。その信玄に、敢然と立ち向かったのが義清であった。義清は、北信濃の(現在でいえば)飯山市・長野市・千曲市・上田市一帯を支配していた豪族で、知勇ともに優れた武将として知られる。

 

 信虎時代には武田氏とも同盟したことはあったが、信玄時代になると義清は同盟を破棄した。最初の武田・村上の決戦は、天文17年(1548)2月14日の上田原合戦であった。上田原は、上田市の中心よし千曲川を隔てて西方約4キロにある。埴科・更科・小県の3郡の境界地点でもある。激突した両軍は、8時間にも呼ぶ戦いに及び、最初こそ有利であった武田軍は次第に村上軍の刃城攻撃に混乱を生じた。義清の作戦に引っ掛かって、敵を深追いした板垣信方(いたがきのぶかた)・甘利虎安(あまりとらやす)・初鹿野伝右衛門(はじかのでんえもん)らの宿将が討ち取られた。信玄自身も槍によって左腕を負傷したほどである。

 

 地の利を得ていた義清の采配は、信玄を上回った。戦死者700。武田軍の完敗というよりも、むしろ惨敗であった。

 

 態勢を立て直した信玄は、2年後の天文19年8がつ、再び義清に挑んだ。攻撃目標は義清の居城の1つ、戸石城(といしじょう)である。戸石城は上田盆地に突きだした丘陵地帯にあり、広大な城域に4つの城郭が機能的に配置された信濃屈指の堅牢な城であった。この攻撃中に、武田軍は城内と城外の双方向から挟み撃ちに遭い、使者1千を超える被害を出した。「武田の戸石崩れ」と呼ばれる再度の完敗である。

 

 2度も信玄を大敗させた義清だったが、信玄の新しい家臣になった真田幸隆(さなだゆきたか)らの奮戦もあって、3度目には信玄が勝利する。義清は命からがら、越後・上杉謙信のもとに逃れ、助力を願い出た。これが、後の「川中島合戦」につながっていくことになる。

 

 なお義清は、信濃の奪還に成功することなく天正元年(1573)に越後で死亡する。奇しくも信玄の没年と一緒である。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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