独特の剣法・抜刀流(居合)を編み出した剣豪<林崎甚助>とは⁉
【日本剣豪列伝】剣をもって生き、闘い抜いた男たち<第6回>
戦国時代。剣をもって戦場を往来し、闘い抜き、その戦闘形態が剣・槍・弓矢から鉄砲に変わっても、日本の剣術は発達し続け、江戸時代初期から幕末までに「剣術」から「剣道」という兵法道になり、芸術としての精神性まで待つようになった。剣の道は理論化され、体系化されて、多くの流派が生まれた。名勝負なども行われた戦国時代から江戸・幕末までの剣豪たちの技と生き様を追った。第6回は抜刀流(ばっとうりゅう/居合)を編み出した林崎甚助(はやしざきじんすけ)。

太刀(名物 大包平/めいぶつ おおかねひら)
堂々たる大太刀で地鉄、刃文の仕上がりが美しい。古備前鍛冶の刀工の一人である包平。銘は「備前国包平作」と長銘である。
林崎甚助は、天文11年(1542)出羽国楯岡(でわのくにたておか)で生まれている。城主・最上豊前守の家臣・浅野数馬を父に持つ。幼名を民治という。後に林崎甚助を名乗る。甚助が7歳の時に、父が女性問題に絡んで藩の食客であった坂上主膳(さかがみしゅぜん)の闇討ちにあって殺された。坂上は当時一流の遣い手とされていた。いかに父の仇を討ちたくても、6歳ではどうにもならない。幼い陣助はじっと待つしかなかった。そして12歳になった時に、父が信仰していた楯岡にある林崎神社に「仇討ち」の願を掛けた。と同時に、この神社近くの森で剣の修行に励んだ。千日間を目標にした。
風雪に負けず、一心不乱に毎夜の修行を続けた。木刀を持って暗い森に入り、大樹や林を相手にして打ち込み、力を付けた。「今日で千日目」という深夜。心身ともに疲労困憊した甚助は、疲れ切ってうたた寝をしていた。誰かが呼ぶ声が聞こえた。「民治、民治」と名前を呼ばれて見上げた甚助の目の前に、白髪の老人が現れた。「あなたは?」と訪ねる甚助に老人は名を答えず、木刀を与えたのみであった。
そして「おまえは一流の剣客になる運命を持っている。だが、使う刀には、いくつもの形がある。柄が短いものから刀身が長いものまで、そうしたことを知った上で、長い柄の刀に利があることを悟るべし」という。甚助の手には、1本の木刀が乗っていた。
ハッとして眠りから覚めた甚助は「夢か」と思ったが、夢の中で老人が告げた言葉と自分の手の上に載せられた木刀の形を思い出した。それから、1本の木刀を自分自身で削って作った。それは、柄の長さが59センチ、刀身の長さ89センチという形のものであった。刀身が短く、柄が長い形である。通常の刀とは全く異なる形である。
以来、甚助はこの刀を使って剣技に工夫を凝らした。抜き打ちに早業を加えて、シュッと抜く。これを5回繰り返す。さらに5回が間断なく抜けるようになったら、その回数を増やしていく。そして、とうとうそれまでの兵法にない、抜刀術(居合術/いわいじゅつ)を編み出したのであった。
その抜刀術に自信を持った甚助は、家に戻ると母の面前で元服し、名前を浅野民治から林崎甚助重信と改名して、更なる武者修行の旅に出た。目指す仇・坂上主善を探す目的もあった。そして、やっと摂津国で主膳に巡り会った甚助は「父の仇を討つ」として勝負を挑んだ。腕に自信のある主膳は、返り討ちをしてくれん、とばかりに刀の柄に手を掛けた。甚助は、3尺(約1メートル)ばかり間を空けて刀の柄を握る。主膳が刀を抜く瞬間、甚助の抜刀術が閃いた。主膳に抜く間も見せず、甚助の刀は真っ向から唐竹割(からたけわ)りで即死させた。主膳は刀を抜く間もなく、柄に手を掛けたままであったという。
以後、甚助の名は全国に知られるようになり、多くの弟子が抜刀術を学ぶ。甚助の抜刀術は「神夢想林崎流(しんむそうはやしざきりゅう)」と呼ばれるが、これは甚助が名付けたものではなく、後の世にそう呼称されたものである。なお後に、林崎神社は甚助の抜刀術に因んで改名され、林崎居合神社となっている。甚助は元和3年(1621)、79歳の高齢で没した。