豊臣秀吉が死んだあと、徳川家康がはじめにやったこととは⁉
徳川家康の「真実」
天下取りを果たした豊臣秀吉は慶長3年(1598)に息をひき取った。秀吉の子・秀頼はこのときわずか6歳。豊臣政権下ではこれを機にだれが権力を握るか、まだまだ不明であった。
■私婚と度重なる有力大名の屋敷訪問

徳川家康像
豊臣秀吉は死の2週間前の慶長3年(1598)8月5日、「豊臣秀吉遺言覚書」を残した。この遺言には、秀吉没後の構想が書き記されている。その内容を確認しておきたい。
①徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家は、秀吉の遺言を守り、互いに婚姻関係を結ぶことにより、紐帯(ちゅうたい)を強めること。
②家康は、3年間在京しなくてはならないこと。なお、所用のある時は、秀忠(ひでただ)を下すこと。
③家康を伏見城の留守居の責任者とすること。五奉行のうち前田玄以・長束正家を筆頭に、もうひとりを伏見に置くこと。
④五奉行の残りふたりは、大坂城の留守居を務めること。
⑤秀頼が大坂城入城後は、武家衆の妻子も大坂に移ること。
まず重要なのは、五大老のメンバーを徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家に確定したことである。秀吉は死に際しても、家康がもっとも頼りになることを痛感していた。同時に五大老や諸大名に対して、秀頼への忠誠を誓わせる起請文を提出させていた。死を控えた秀吉は、たったひとりの我が子の秀頼があまりに心配だったのだ。
一方、すでに秀吉は、文禄4年(1595)8月に御掟を定めていた。その内容は、大名間の縁組みには事前に秀吉の許可を得ること、大名間で盟約を結ぶことを禁じることだ。大名間の縁組は、同盟関係の構築につながる。秀吉は、こうした行為が謀叛につながることを予見しており、それは秀吉の死後も暗黙のうちにルールとして残っていた。
秀吉の病状が悪化したのは、慶長3年6月のことだった。秀吉の病名は判然としないが、脳梅毒説、痢病(赤痢・疫痢の類)説、尿毒症説、脚気説などなど、さまざまな説がある。残された秀頼は、まだ6歳の少年に過ぎなかった。
秀吉の死後、ただちに家康は不穏な動きを見せた。家康は断りを得ずして、ほかの大名家との婚姻を行おうとしたのである。その婚姻相手などは、次のとおりである。
①辰千代(後の忠輝・家康の六男)と五郎八姫 (伊達政宗の長女)。
②氏姫(家康の養女)と蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の嫡子)。
③満天姫(家康の養女)と福島正之(福島正則の養子)。
この婚儀に対して、怒り心頭なのが五奉行たちだった。むろん理由は、婚儀が秘密裏に無断で実行されようとしたからである。
家康の不穏な動きは、これだけに止まらなかった。家康は有力な諸大名である、増田長盛、長宗我部盛親、新庄直頼、島津義久、細川藤孝(幽斎)の伏見屋敷をしきりに訪問していたのである。このことは「掟」に抵触しないものの、外から見るといかにも多数派工作と映ってしまう。五奉行たちは、そうした家康の動向を危険視し、警戒心をいっそう強めたのである。
やがて、この問題は大きくなり、石田三成をはじめとする五奉行は、「掟」を楯にして、家康に誓書の提出を求めた。結局、家康は五奉行に対して、「掟」への違反を認め、今後遵守する旨を誓約した。慶長4年2月のことである。家康が無断で行った私婚は、五奉行の面々を強く刺激した。しかし、一触即発の事態に際して、歯止めとなったのが、五大老の長老格である前田利家の存在だった。利家の存在なくして、この危機は回避し得なかったことであろう。しかし、利家がこの世を去ると、歯車の回転は再び狂いだしたのである。
監修・文/渡邊大門