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豊臣秀吉の遺言書に書かれた「五大老・五奉行」制に徳川家康は反対だった!?

徳川家康の「真実」


豊臣秀吉の「死」そのものは大きな出来事であったが、その前後でもざわつかせる出来事が頻発していた。


 

■豊臣秀次事件は家康の足場固めと味方を増やすことにつながる

 

現在の伏見城は模擬天守となっている。

 

 豊臣秀吉は文禄2年8月に嫡子・拾(ひろい/のちの秀頼)が産まれると、同4年7月に関白職を譲っていた甥の秀次を自殺させてしまう。このとき江戸に戻っていた徳川家康も急きょ上洛し、秀吉の相談に与っている。

 

 秀次の関係者も大量に粛清されたこの事件では、奥州の伊達政宗も改易(かいえき)され四国に転封されるという噂が立ったが、家康が政宗に強気な姿勢を取る様に忠告し、それに従った政宗はお構い無しを勝ち取っている。また、細川忠興(ただおき)は朝鮮出兵の費用を秀次から借りていたため家康に泣きついて返済を立て替えてもらい事なきを得た。のちに関ヶ原の戦いで忠興が家康のために立ち働いたのは、このときの恩義が大きかったと言われているから、秀次の処分は秀吉にとって痛恨のエラーだった。

 

 それは忠興の一件に限らない。秀次とともに処刑された前野長康や木村重茲(しげこれ)以下の家臣たちは、軍政両面における優秀な官僚でもあった。それを一気に失ったことで豊臣家の力の縮小を招き、統制が弛(ゆる)むという結果につながったのだ。

 

 もっともそれは、家康にとって筆頭外様大名の地位を安定化させるための格好な状況だったとも言える。

 

 朝鮮出兵が再開された慶長2年(1597)、秀長亡きあと家康の対抗馬とされていた小早川隆景が病死すると秀吉の健康も悪化。秀長も秀次も優秀な官僚団の半ばも失った秀吉としては、幼子の秀頼の政務諮問機関の五大老(筆頭・家康、毛利輝元、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝)、政務代行機関の五奉行(浅野長政、長束正家、増田長盛、前田玄以、石田三成)に後事を託すよりほかは無かった。慶長3年8月18日、秀吉は朝鮮に14万以上の兵を派遣したまま、伏見城で死去する。

 

■五大老と五奉行は本来は反対だった?

 

 豊臣秀吉は遺言書で家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝の大身大名五人を「五人の衆」と呼んだ。同じく石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以の高級官僚五人は「五人の物(者)」だ。三成ほかの文書を見ても従来から家康らを「御奉行衆」、自らを「年寄共」と記す。これを理由として「五大老・五奉行」呼称は本来逆だ、とする説もあるが、ほかの史料で家康らを「老中」「年寄」、三成らを「奉行」と呼ぶものは多い。どうやら三成らは豊臣政権の官僚機構に箔をつけるため、わざと家康らを蔑称し、自分たちを持ち上げたようだ。

 

監修・文/橋場日月

(『歴史人』20232月号「徳川家康の真実」より)

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