なぜ豊臣秀吉は徳川家康を関東に移したのか⁉そしてなぜ家康は江戸を本拠にしたのか?
徳川家康の「真実」
相模の北条氏の征伐を成した後、徳川家康は長年過ごした三河の地から関東へと移封した。この秀吉の命には秀吉の思惑が、また家康には家康の思惑があった⁉
■小田原攻めに参加した家康は豊臣家中から警戒されていた

家康が小田原征伐の際に攻めた山中城の跡。特徴的な障子堀を残し、人気の観光スポットになっている。
徳川家康が豊臣秀吉の命で関東移封する前後の動きについて触れていく。小田原北条征伐では家康は山中城の攻撃軍に加わり、3万の軍勢で西の丸を攻め、城は1日で陥落している。徳川別働隊は鷹ノ巣城・足柄城を攻め落とし韮山城・下田城・玉縄城・松井田城攻略にも参加。
家康以下、最終的には小田原城の包囲陣に加わった。豊臣軍のサポートの域を出ない働きではあるが、兵力的には諸侯の中で最大の兵力で貢献度は高かった。実は、家康は北条氏の降伏前にすでに秀吉から関東移封を打診されていたらしく、前年末には「関東八州遣はさるべき」と秀吉からの言葉があったという(「乙骨太郎左衛門覚書」)。このため、家康は関東を与えられるにふさわしい存在感を示す必要があったのだ。
一方で、小田原陣の最中にはこんなエピソードも伝えられている。箱根の諸陣に「家康と織田信雄が共謀して北条氏へ内通し、秀吉の本陣ほか諸陣をことごとく焼き討ちする日時に小田原城内からも出撃して豊臣軍を追い落とす手筈となっているらしい」と噂が流れたというものだ。秀吉はこれを聞いて家康の陣所を訪れ、夜まで賑やかに過ごし、将兵の疑念を打ち消してみせた(『落穂集』)、というのは史実かどうかは分からないが、新参で外様の大大名である家康を怖れ警戒する空気が豊臣軍の中に広く漂っていたのは当然だろう。
■なぜ秀吉は家康を関東に移し家康は江戸を本拠にしたのか

東京・両国に立つ徳川家康像
そんな家康から営々と築き上げた駿河・遠江・三河・甲斐・信濃を取り上げ、相模・武蔵・伊豆・上野・上総・下総の関東6カ国を与えた秀吉の狙いは何か。善意に解釈すれば、北条氏なきあとの関東をうまく統治するのは家康くらいの大物でなければ務まらない、ということもあったかも知れない。しかし秀吉にとっては北条氏の影響の残る関東に家康を封じれば、何よりもまず東海地方で培った土地とのつながりを断ち切る事となり、その力を削ぐ事ができる。新領地の統治に手こずってさらに力を減衰するだろう。そうなれば如何様にも料理できる。うまく行けば国内に反乱が起こり、それを名目に家康を取りつぶせるかもしれない。これには前例があり、肥後を与えられた佐々成政が内乱の責任を問われ2年前に切腹させられている。
それが駄目でも、中央から僻地に追いやってその周囲に監視の大名を配置しておけば手も足も出せないだろう。信濃上田には真田昌幸、会津には蒲生氏郷、遠江掛川には山内一豊、遠江浜松城には堀尾吉晴、駿河駿府には中村一氏など、その目論見は現実に実行された。
以上、秀吉はそんな思惑で移転を命令したと思われる。しかし、家康はこの異動を極めて前向きに受け止める。4月の段階で既に家臣の戸田忠次を江戸の下調べに派遣(『家忠日記』)。調査の結果江戸を関東統治の適地と判断した家康は8月1日に江戸城に入った(異説あり)。のちに徳川幕府はこれを記念して「八朔(8月朔日)」の行事を重視する。
秀吉が狙った地生えの土地との切り離しは、検地と家臣団の知行割りによる中央集権化の絶好の機会となり、家康の権力は確立されていく。その証拠として「家康」「家康様」「殿様」と一定しなかった家臣からの呼称も、以降「殿様」に固定され、彼の専制君主としての位置付けが明確になっていった(『家忠日記』)。秀吉が結城秀康(家康の次男で秀吉の元猶子)を5万石で下総に配したのも家康には幸いだった。
最後に、なぜ家康が関東の政治の中心として江戸を選んだか、という点を考えよう。秀吉が北条征伐の際に石垣山(笠懸山)から小田原城を眼下に望みながら家康に「そこもとはあの城に住まわれるか」と問い、「江戸の方が然るべし」と勧めた逸話がある(『落穂集追加』)が、実際には早くから江戸を下見していた事は前述の通りだ。湿地帯ではあるが江戸湾を持ち、荒川など河川運輸の便にも恵まれ、発展の余地が大きい江戸は、やがて大坂の様な大都市になり得ると計算したものと思われる。
監修・文/橋場日月