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臣従した徳川家康を利用し他の武将たちをも感服させた豊臣秀吉の策とは⁉

徳川家康の「真実」


関白となった豊臣秀吉は難敵・徳川家康をついに臣従させた。しかしまだまだ周囲にはこれまで同位だった武将たちは秀吉にひれ伏し切ったわけではなかった。そこで秀吉が家康を利用してひとつ策を講じたのあった。


 

■秀吉に臣従した家康は東北での反乱鎮圧で活躍

 

 天正14年(1586)11月27日、徳川家康は大坂城で公式に秀吉に礼をおこなうが、実はその前に家康の宿泊先を秀吉がおしのびで訪問していた。秀吉はこう言う。

 

「秀吉今位人臣(くらいじんしん)を極め(中略)ども、今被官(家来)となりし者どもも元は同僚傍輩(ほうばい)なれば、実(まこと)の主君とは思わず。願はくば(中略)対面進らせむ時に、その御心して給はるべし。秀吉に天下を取らせらるゝも失はしめらるゝも卿(家康)の御心ひとつにあり」(『徳川実紀』)。

 

 これに対し、家康も協力を約束し、拝謁(はいえつ)の場面ではことさらに畏(かしこ)まってみせた。これを見た群臣は皆「徳川殿さえ恐れ入るのだから、秀吉を軽蔑などできない」と感服したという。

 

督姫
徳川家康の次女。徳川氏と北条氏の和睦を実現するため、北条氏直に嫁いだ。(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)

 

 豊臣大名の筆頭となった家康は天正18年1月10日、2万5000の軍勢を率いて秀吉の小田原北条征伐に参加。「秀吉に従わないなら北条氏直(氏政の子)に嫁がせた督姫(とくひめ)を返してくれ」と申し入れた上での決裂だった。すでに九州の島津義久(しまづよしひさ)も降り、秀吉に反抗するのは自殺行為だったのだ。

 

 7月5日、氏直が降伏すると、家康は相模・武蔵・伊豆・上野・上総・下総の関東6カ国を与えられ関東移封となり、秀吉による「関東・奥両国惣無事令」を実現すべく和賀・稗貫一揆・仙北一揆・藤島一揆・九戸政実の乱などの鎮圧に奔走した。特に葛西大崎一揆については「早々御出馬」と家臣団にも自身の出陣を触れ出すほどだった(『家忠日記』)。

 

監修・文/橋場日明

(『歴史人』20232月号「徳川家康の真実」より)

 

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