徳川家康vs豊臣秀吉「小牧長久手の戦い」とは実際、どのような戦いだったのだろうか⁉
徳川家康の「真実」
のちにふたりとも天下人となる徳川家康と豊臣秀吉。このふたりが唯一激突した戦い、小牧長久手の戦い。この戦いはどのような戦いだったのかにここでは迫る。
■長久手の戦いで徳川軍が勝利!豊臣秀吉軍の中入り作戦を阻止する

小牧山城
標高約86mの小牧山の頂上にたつ小牧山城。徳川家康は小牧長久手の戦いに際し、かつて織田信長が居城とし、その後廃城となっていたこの城を整備し、本陣を置いた。
3月29日、豊臣秀吉が小牧山城北東の楽田に着陣。小牧原に織田・徳川連合軍3万と羽柴軍10万が集結した。
戦場を実見した秀吉は徳川家康の備えが堅いのを確認、自軍の防備の強化工事を命じるが、保田安政が河内で活動を続けるなど、長滞陣にはリスクがあった。それこそが家康の狙いであり、対策を講じられていたものの家康が築いた包囲網は有効に機能している。このため、秀吉は4月6日、甥の秀次を主将にして1万6000の別動隊を三河奇襲(「中入り」)に向かわせた。『太閤記』などの軍記物ではこれを池田恒興の献策によるものとしているが、当時のイエスズ会宣教使のレポートによれば秀吉はみずから「中入り」を企画しルートの国人領主たちを買収していたとある。さらに6日当日のことを、秀吉は丹羽長秀(にわながひで)にこう書き送っている。
「参州(三河)表に至り手遣いせしめ、発向調うべき儀の間、九鬼右馬允(嘉隆)も船手にて彼(か)の国へ差し遣わし候」
「中入り」は秀吉主導で、水軍も動員した海陸連携の壮大な計画だったのだ。結果として「中入り」作戦は失敗に終わるのだが、その責任を死んだ恒興らに負わせたのだろうか。
対する徳川家の水軍力は低いため、家康としては海陸のうち陸の敵兵力だけは確実に潰さなければならない。
そこで彼は国人領主らに買収されたふりをするよう指示し、「中入り」部隊を深く引き込んだ上でその後背を断ち殲滅(せんめつ)する戦法を取った。家康が怖れなければならない九鬼水軍は、この時期伊勢松ヶ島城の包囲に参加しており、すぐに移動して船団を再組織することは不可能である。この点、家康は幸運だったとも言える。九鬼水軍が知多半島・渥美半島に襲来するのは11日後のことだった。
地元土豪の通報などでかねてからの見込み通り秀次以下の移動を確認すると自らひそかに小牧山の陣から出発し、連合軍主力9300を率いて東進し、白は く山さん林ばやしで秀次本隊が朝食の準備を開始している午前4時半過ぎに右翼(西側)から大須賀(おおすか)・水野・丹羽隊が急襲をかけた。続けて左翼(北~東方)から榊原隊が突撃をおこなうと、秀次本隊は潰乱(かいらん)。秀次は馬も失い徒かちはだしの有様だったという。
秀次本隊の先にいた堀秀政隊は桧ヶ根(ひのきがね)で榊原・大須賀・水野・丹羽隊を撃退したが、家康本隊は富士ヶ根に進出し、家康の馬印「金の扇」を掲げ午前8時過ぎ前山・仏ヶ根一帯に布陣し池田恒興・森長可隊に攻めかかった。正午頃、長可は眉間に銃弾を受けて斃(た)おれ、恒興も足に銃弾を受け家康配下の永井直勝に首を授ける。楽田城の秀吉が報告を受け2万の兵でかけつけた時には、すでに家康は小牧山城へ引き揚げたあとだった。「人数一万余騎討ち捕り候」(家康書状)、「軍兵一万余り討ち死に、すなわち敗軍」(『貝塚御座所日記』)と東西の史料は一致している。
この勝利は江戸時代に「家康の天下取りは関ヶ原にあらず、小牧にあり」(『日本外史』)と称揚(しょうよう)されることとなった。

楽田城跡
小牧山に陣を置いた家康に対し、秀吉は楽田城に陣を置いた。対陣した両者の兵力差は大きく、織田・徳川軍が3万、秀吉軍は10万ともいわれる。
監修・文/橋場日明