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徳川家康は朝鮮出兵に伴う名護屋入りに乗り気ではなかった⁉

徳川家康の「真実」


天下統一を果たした豊臣秀吉はその勢いのまま、大陸への進出を目指した。秀吉に臣従した家康ももちろん出陣することになるのだが、その心中はいかに⁉


 

■徳川家康は関東を家臣に任せ肥前名護屋に在陣

 

名護屋城跡

 

 徳川家康は、外では豊臣政権下最大の外様大名として豊臣一門筆頭の豊臣秀長(秀吉の弟)と並立して遇され、内では江戸を本拠とし、周辺に譜代重臣を城主格として配置して新領地の開発整備に力を注ぐ。と言えば聞こえは良いのだが、実際には江戸城の普請などは家臣に任せて2年近くのあいだ関東を留守にしてしまうことになった。その間、家康は肥前名護屋(なごや)に滞在していたのである。理由は言うまでもなく、秀吉による朝鮮出兵であった。

 

 明(中国)征服を呼号する秀吉は、すでに天正13年(1585)には家臣に向かって「日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ付け」と、日本と明に知行を与えてやるぞ、と大言壮語をしていたのだが、地方分権派と言える穏健派の弟・秀長が亡くなって歯止め役が居なくなるといよいよこの妄想が天正20年/文禄元年になって実行に移されたのだ。その手始めに、明への道案内を命じても従わない朝鮮を討つ、として諸大名に出陣を命じ、家康もそれに従って名護屋入りしたというのが経緯である。

 

 名護屋入りの前、家康の家臣本多正信が「殿は朝鮮に渡海されるのですか」と尋ねても返事がなく、三度目に「何事だ、やかましい。(中略)(自分がいなくなれば)箱根を誰が守るというのだ」と答えたという(『常山紀談』)。無用ないくさに駆り出される家康の心中が察せられる。

 

■秀吉の渡海を諫めた家康と利家、そして出兵や普請で諸大名は疲弊する

 

 この朝鮮戦争は、文禄・慶長の2度にわたって実施されたが、結局明・朝鮮の反撃と補給の困難が原因となり、失敗に終わった。その間、家康は前田利家とともに秀吉の渡海を諫め、国内の安定を優先させた。また、家康以下朝鮮に渡海しない東国大名には伏見城の築城工事が課せられ、「1万貫の高にて300人の役夫」(『武徳編年集成』)の負担を強いられる。大名たちはみな極度の疲弊に陥っていた。

 

監修・文/橋場日月

(『歴史人』20232月号「徳川家康の真実」より)

 

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