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「伊賀忍者」たちは戦国時代”自治共和体制”を形成し独自の生き抜き方を模索した

戦国レジェンド

 

■覇王・信長にも屈しなかった伊賀忍者たちの底力

服部半蔵
現在、忍者と聞くと服部半蔵を思い浮かべる人も多い。しかし、彼は生粋の忍者ではなく徳川家康の重臣としての功績のほうが大きいとされる人物である。
東京国立博物館/出典:Colbase

 応仁(おうにん)の乱(1467~77)の前後から伊賀・甲賀の人々は「惣(そう)」とも「一揆」ともいわれる一種の自治共和体制を保持した。この場合、伊賀は「伊賀惣国一揆」といい甲賀は「甲賀郡中惣」といった。伊賀惣国一揆は厳しい掟をもって国人に臨んだ。乱世の掟である。その中心は、戦争・戦闘に関するものであり、裏切り者への見せしめとか、年貢収納・祭礼・年中行事に至るまで取り決められていた。

 

 こうした掟を定め、運営に当たったのは伊賀国内各地から選ばれた12人の評定(ひょうじょう/リーダー的な人物たち)であった。江戸時代に書かれた『伊乱記』には「選出」「評定」などの言葉が使われていて、意見の食い違いなどは「入れ札(選挙)」で決めたという。こうした共和体制は、実はフランス革命(1789~1795)よりも古い。

 

『伊乱記』は、伊賀惣国とその国人たちを、300近くの砦・館がひしめき、血気にはやり、自分の住居には深い濠を掘り、土居を築き柵を結い、逆茂木(さかもぎ)を仕掛け、門戸を厳重にして武具を蓄え、果てしなく戦う姿勢を見せた、と記す。さらには「彼らは火術・謀術などという奇異な術を使い、(東大寺などの)荘園に押し入り、殺人・放火は余すところ無く、住居・寺社を焼き払った」と書く。

 

 だが、人々の暮らしについては「普段は昼頃まで農・工・商の仕事に従事し、午後から日暮れまで武芸弓馬の道にいそしんだ。伊賀の遺風ともいえる惻隠(そくいん)の術(忍術)の通力を相伝し、いかなる要害といえども忍び込めないことはなかった」と記す。どちらかといえば「平和な暮らしぶり」といえる日々を送った。

 

 先述したが、伊賀には「上忍・中忍・下忍」という忍びの組織があったとされる。上忍は数えるほどで、その中で代表的上忍が服部半三(半蔵/はっとりはんぞう)に代表される「大姓・服部氏」であった。「人ノ知ルコトナクシテ巧者ナルヲ上忍トスル」(『萬川集海』)であり、上忍は「音モナク、臭イモナク、知名モナク、有名モナシ」という存在であった。この服部半三とは、有名な半蔵正成(はんぞうまさなり)の父・保長(やすなが)をいう。この半三保長は、享禄年間(1528~32)に三河・松平氏(徳川氏)に仕えたから、その後の伊賀は、残った上忍の百地丹波・藤林長門(ふじばやしながと)が支配した。

 

 伊賀忍者は、長い時間を織田信長(おだのぶなが)と戦っている。「天正伊賀の乱」(1579~1581)といわれる信長による伊賀侵略戦争である。畿内主要部を掌中にした信長だが、伊賀だけは平定できずにいた。天正7年9月、信長の次男・信雄(のぶかつ)は1万の兵を率いて伊賀に侵攻したが、国人や忍者軍団の反撃にあって惨敗する。天正9年9月、今度は信長自らが5万を率いて伊賀に侵攻した。この大軍には伊賀惣国もひとたまりもなく、各地の城塞は次々に落とされた。とはいえ、百地丹波・藤林長門を盟主とする伊賀者は伊賀南部の柏原城に籠城して反抗し、織田方の猛攻を1カ月以上も持ち堪えたが、伊賀惣国は10月28日に陥落した。

 

伊賀上野城
城が建つ以前は平楽寺であり、乱の際は伊賀者が1500人籠城し戦った。

 

 一方、服部氏の盟主・半三保長は『寛政重修諸家譜』では「将軍・足利義晴に仕えた後に三河国に来たりて(松平)清康(きよやす)・広忠(ひろただ)・東照宮(家康/いえやす)に仕えてのち致仕する。岡崎にて死亡する」とある。後継者の半蔵正成は、保長の4男か5男といわれる。しかし言われるように、半蔵正成は忍者としてではなく、家康にとって勇敢な武将として認知されていた。「徳川殿はよい人持ちよ。服部半蔵・鬼半蔵、渡辺半蔵・槍半蔵」と謳われるほどの武人であったから後年「徳川16神将(しんしょう)」のひとりとして顕賞されている。

 

 本能寺の変(1582)の際に、家康がいわゆる「伊賀越え」をして岡崎城に戻る際に、伊賀・甲賀の国人たち(忍者を含む)を動員して家康を守ったことから、後に家康は半蔵正成に8千石を与え、与力30騎、伊賀同心200人の頭とした。伊賀者は、半蔵指揮の下で10数度に渡って合戦で活躍している。小牧(こまき)・長久手(ながくて)合戦、伊豆韮山(いずにらやま)合戦、甲州攻略、信州真田攻め、小田原の陣、奥州征伐、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役のほか、半蔵死後の関ヶ原(せきがはら)合戦、大坂の陣でも忍者として、あるいは武士として戦って討ち死にした者も多数であった。

 

監修・文/江宮隆之

歴史人2023年3月号「戦国レジェンド」より

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