僧侶でありながら今川家の軍師として活躍した「戦国最強の僧侶」太原雪斎とは⁉
戦国レジェンド
戦国時代、今川氏は大きな領地を有し、東海屈指の勢力を誇った。その今川家の拡大を助け、今川家を大きく支えたのが「戦国最強の僧侶」と評されたのが、太原雪斎である。
■禅僧の立場を超えて版図拡大に尽力

今川家の菩提寺・臨済寺。
太源崇孚(たいげんそうふ)は諱(いみな)が太原、字(あざな)が崇孚である。号が雪斎(せっさい)であることから、太原雪斎の名でも知られている。
駿河今川氏の重臣であった庵原(いはら)氏の出身で、駿河の善得寺(ぜんとくじ)に入寺し、その後、京都の建仁寺(けんにんじ)で修行している。本来であれば、住持(じゅうじ)として一生を終えていたことだろう。
しかし、主君の今川氏親(うじちか)から5男芳菊丸(ほうきくまる)の養育を命じられたことで、運命が変わる。芳菊丸は、仏門に入って栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗っており、家督を継ぐ立場にはなかった。しかし、長兄の氏輝が亡くなったことで家督の候補となったのである。異母兄の玄広恵探(げんこうえたん)との家督争いを制した栴岳承芳が還俗して義元(よしもと)と名乗り、家督を継ぐ。このとき太源崇孚は、義元の補佐役として戦略や戦術を進言する軍師の立場となっている。

雪斎の主君で、東海一の弓取りと呼ばれた今川義元(国立国会図書館蔵)
一般的に軍師は、主君に近侍(きんじ)するものだった。しかし、太源崇孚は、禅僧でありながら、自ら総大将として一軍を率いている。そのころ今川義元は、三河への進出を画策していた。三河には、織田信秀(のぶひで)も触手を伸ばしていたためである。
天文18年(1549)、太源崇孚は織田信秀の子信広(のぶひろ)が守る安祥城(あんじょうじょう)を攻略した。そして、信広を捕らえると、信秀のもとに置かれていた幼少の徳川家康(とくがわいえやす)を奪還したのである。家康を今川氏の人質にすることで、主君の義元が三河を実効支配することができたのである。
このほか、太源崇孚は外交にも関与していた。義元は甲斐の武田信玄(たけだしんげん)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と甲相駿(こうそうすん)三国同盟を結んだが、この同盟締結の交渉にあたったのも、太源崇孚だった。
監修・文/小和田泰経