戦国英雄として語られ、人気を誇る「真田幸村(信繁)」はどのような最期を遂げたのだろうか?
戦国レジェンド
現在、ドラマや映画、ゲームなどでも登場し、もっとも人気を得る戦国武将のひとり・真田幸村。彼の最期に迫る。
■大坂冬の陣では瀬田への出撃案を献策

真田家の本拠であった上田の駅前に立つ真田幸村像
真田信繁(幸村)は真田昌幸(さなだまさゆき)の次男で、信幸(のぶゆき/信之)の弟にあたる。関ヶ原の戦いでは、兄とは袂(たもと)を分かち父とともに西軍に属したため、徳川秀忠(ひでただ)に上田城を攻められた。この戦いでは上田城を守り切ったが、関ヶ原の戦いで西軍が敗北したため、高野山(こうやさん)へ流される。
この間、父昌幸は亡くなったが、大坂冬の陣に際し、豊臣秀頼(ひでより)から招集された。軍議の場においては、大坂城に籠城するのではなく、近江国(おうみのくに)の瀬田(せた)まで出撃する作戦を提案している。
関ヶ原の戦いで東軍を食い止めたという信繁の功績は大きく、期待されていたのであろう。しかし、この献策は、籠城を主張した大野治長(おおのはるなが)に阻まれ、採用されることはなかった。
大坂城に籠城することが決まると、惣構(そうがまえ)の南東に出丸(でまる)を構えている。これは、のちに真田丸(さなだまる)とよばれている。翌年の夏の陣では、大坂城外の茶臼山(ちゃうすやま)に布陣して家康の本陣を狙ったが、討ち死にしてしまった。

江戸時代の歌舞伎などでも登場して人気を得た幸村。(東京都立中央図書館蔵)
監修・文 小和田泰経