戦国時代に策略家として名を馳せた毛利元就はどんな人生を歩んだのか?
戦国レジェンド
中国の戦国大名といったら毛利元就。策略家、謀略家として戦国の世に名を轟かせた元就はいかなる人生を歩んだのか?
■兄と甥の急死を受けて当主に戦功を重ね家中の信頼を得る

毛利元就の墓
郡山城跡に残る元就の墓。内玉垣に囲まれた墓には、中国原産のハリイブキの木が墓標として立ち、近くには毛利一族の墓も移葬されている。
安芸国の一国人(こくじん)領主に過ぎなかった毛利(もうり)氏、それを西国随一の大大名へと押し上げたのが毛利元就(もとなり)であった。安芸吉田荘の国人領主・毛利弘元(ひろもと)の次男で、幼名は松寿丸(しょうじゅまる)。元就を名乗ったのは、永正8年(1511)に元服してからのことである。
その5年前の永正3年、松寿丸が10歳の頃、父が酒毒がもとで死去。跡を継いだ長兄・興元(おきもと)もまた、永正13年に酒毒のため急死。父、兄共々酒に害されたことから、自身は生涯節酒に努めたともいわれている。
長兄の死に伴って、その嫡男・幸松丸(こうまつまる)が家督を相続したものの、幼少のため元就が後見役になった。事実上、元就が毛利氏を率いることになったのである。ただし、この隙を突くべく、安芸国の旧守護・武田元繁(もとしげ)が、総勢5000余騎を率いて、毛利氏が攻略した有田(ありた)城に侵攻してきたことがあった。これをわずか1500の兵で撃破。元就は初陣を華々しく飾ったのである。
大永3年(1523)には、家督を相続した甥の幸松丸が9歳で死去。ここにおいてようやく、重臣たちの推挙によって、元就が名実共に家督を継ぐことになった。以降、戦功に戦功を重ね、臣下からの信望を集めていったようである。
その元就に次なる危機が訪れたのが、天文10年(1541)のことであった。出雲を拠点として勢力拡大を目指す尼子(あまご)氏が、3万もの大軍を率いて、毛利氏の本拠・郡山城へと攻め寄せてきたからである。対して、元就側の軍勢は3000。止(や)む無く籠城したものの、援軍として駆けつけてきた陶隆房(すえたかふさ/晴賢/はるかた)の活躍もあって、尼子軍の撃退に成功。この勝利によって、安芸国における最大勢力に躍り出ることができたのだ。
それでも、元就はこの勝利に慢心することなく、毛利氏安泰のための秘策を実行に移している。それが、3男・徳寿丸(とくじゅまる/隆景)を強力な水軍を擁する小早川氏に、次男・元春を妻・妙玖(みょうきゅう)の実家である吉川氏にそれぞれ婿入りさせて、「毛利両川体制」を確立するというものであった。その結果、安芸、石見を勢力下に置く吉川氏と、備後ばかりか瀬戸内海にまで勢力を広げていた小早川氏を通じて、その全域を手中に収めることができたわけだから、実に意義あることであった。
さらには、家中において専横(せんおう)を極めていた井上元兼(もとかね)とその一族を殺害。その上で、家臣に対して毛利氏への忠誠を誓わせている。一族および家臣の結束に力を注ぐなど、毛利氏安泰への道のりを確実なものにしていったのである。
天文20年(1551)、周防国の雄・大内義隆(よしたか)が家臣の陶晴賢に殺害されるや、謀略を用いて大内氏の内部分裂を画策。弘治元年(1555)に戦闘が開始された厳島の戦いでは、2万(3万とも)もの陶軍に対して、わずか4〜5000という寡兵ながらも、因島(いんのしま)村上水軍の加勢を得て勝利。陶晴賢を自刃に追いやるなど、華々しい成果を収めている。さらに永禄5年(1562)には、出雲へも侵攻。永禄9年に尼子義久(あまこよしひさ)を降したことで、とうとう中国地方の大半を手中に収める大大名となることができたのだ。
■「天下を競望せず」の心情を最後まで貫いた堅実派

吉田郡山城の麓に立つ毛利元就像。
しかし、そんな名将も病には勝てず、食道癌あるいは瘧(おこり/マラリアに似た熱病か)と呼ばれる病に冒された末の元亀2年(1571)、郡山城において帰らぬ人となった。
出雲の尼子氏や周防の大内氏に挟まれ、常に滅亡の危機にさらされ続けていた元就。家臣団はもとより、毛利両川体制の確立を通じた一族の結束に力点を置くとともに、謀略を用いることで、とうとう周辺の脅威を一掃することができたのである。
ただし、中国地方の覇者となってからは「天下を競望せず」として、それ以上の拡大は望まなかったとか。3人の息子(隆元/たかもと/、元春、隆景)を枕元に呼び寄せて結束を呼びかけたという世に有名な「三矢(さんし)の訓(おしえ)」の教訓(実は『三子教訓状』が元になった話だとも)や、郡山城拡張工事の際に、人柱に代えて、皆で力を合わせれば何事をも成し遂げられるとの意を込めた「百万一心(ひゃくまんいっしん)」と刻んだ石を埋めたというのも、元就の人心掌握術の賜物というべきか。意外にも、堅実派であったことが推し量れるのである。
監修・文 小和田哲男/藤井勝彦