戦国を勝ち抜く「強さ」と巧みな「政治力」をもった武将・北条氏康の能力とは⁉
戦国レジェンド
戦国時代、小田原に君臨し、相模を中心に広域な勢力をもった後北条氏。そのなかでも戦国の世に名を馳せた「氏康」は甲斐・武田信玄と駿河・今川義元とわたりあった武将として知られている。
■籠城戦に無類の強さを発揮 支城網も強固で機能的

北条氏康
その強さだけでなく、政治力も兼ね備え、貨幣制度など整備し領国経営でも才を発揮した。(東京都立中央図書館蔵)
関東を5代100年間にわたって支配した小田原北条氏。初代・北条早雲(そううん)の孫で3代目にあたるのが氏康(うじやす)である。先代の氏綱(うじつな)が天文10年(1541)に没したとき、その隙を突いて関東の旧勢力である扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏、山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏が挙兵。北条方の河越(かわごえ)城を包囲した。さらには西に隣接する今川義元(いまがわよしもと)が北条領をうかがっていた。跡を継いだばかりの氏康は、甲斐の武田信玄の斡旋で義元と和睦。両家と婚姻を結び、甲・相・駿の三国同盟締結でこの危機を乗り切った。
北条氏は本拠地の相模で検地を行なうなど、その支配を盤石にしていたが、氏康は天文10年、家督を継いで間もなく税制改革を断行している。当時さまざまな形で納められていた税を段銭(たんせん)、懸銭(かけせん)、棟別銭(むねべちせん)という三種の銭に整理統合することで管理を簡略化、また厳格化したのである。さらに永禄2年(1559)には「北条所領役帳(しょりょうやくちょう)」を作成。小田原城をはじめ、玉縄(たまなわ)城・江戸城などの家臣団の台帳であり、彼らに課す軍役や普請役などを管理した。そのなかに建築や武器製造をする職人衆の名前もあり、彼らの登用が富国と軍備増強につながった。

小田原城
難攻不落と評され、壮大な惣構えを有し、戦国の城のなかでも最強の城のひとつである。
軍事面では三男の氏照(うじてる)を滝山(たきやま)城、四男・氏邦(うじくに)を鉢形(はちがた)城、氏規(うじのり)を韮山(にらやま)城に配すなど小田原を中心とした広大な支城網を8人の息子に守らせる形で築き上げた。もちろん江戸城や河越城、忍(おし)城などには遠山景綱(とおやまかげつな)や大道寺政繁(だいどうじまさしげ)などの重臣や従えた国衆を配し、連携させて外圧に備えた。
永禄4年、新たに関東管領(かんとうかんれい)となった上杉謙信(うえすぎけんしん)が10万と号(ごう)す大軍を率い侵攻してきたが、氏康は粘り強い籠城策でこれを退ける。さらに永禄12年、武田信玄が小田原城へ攻め寄せたが、このときも氏康は籠城して撃退している。撤退する敵勢に対しては支城が追い討ちをかけるといった防衛システムも万全であった。氏康没後、4代目の氏政(うじまさ)の代に北条氏の版図は最大にまで広がり、秀吉の小田原攻めまでは関東随一の大名として君臨。その地位を不動のものとしたのである。
監修・文小和田哲男/上永哲矢