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戦国最強の鉄砲集団・雑賀衆が武装集団になった理由とは?─民間傭兵集団の謎─

戦国レジェンド


戦国の鉄砲集団として有名な「雑賀衆」。彼らは元々民間人の集まりにしか過ぎなかった。そんな雑賀衆がなぜ武装し、戦国時代で名を轟かせるほどの勢力をもったのだろうか。


 

■金次第で手配できる便利な「傭兵集団」として力をつける

 

雑賀孫一と顕如
雑賀衆の棟梁・鈴木孫市と顕如を演じる歌舞伎役者。雑賀衆と本願寺勢力は結託し、覇王・織田信長を苦しめた。(『御文章石山軍記』東京都立中央図書館蔵)

 

「雑賀衆(さいかしゅう)」は和歌山市の和歌川河口近く、小雑賀(こざいか)という土地を本拠としそこから拡大していった地侍の集団で、「雑賀党(さいかとう)」とも呼ばれる。河口の海浜(「和歌の浦」の一部)はかつて歌や紀行文に「雑賀の浦」「雑賀松原」などと紹介されており、白砂青松の風光明媚(ふうこうめいび)を誇る土地だったようだ。これが11ヶ村から成る雑賀荘(ほぼ現在の和歌山市域周辺)へと発展する。

 

 文明18年(1486)、この地を訪れたのが浄土真宗中興の蓮如(れんにょ)だった。それ以前から浄土真宗の勢力は雑賀荘に浸透していたが、蓮如の布教を経て彼のひ孫・証如(しょうにょ)の時代には結びつきが強化され、「雑賀衆」300人が大坂本願寺(ほんがんじ)へ「番衆」(持ち回りで警備や雑用を務める役)として詰めている。永禄6年(1563)には雑賀における真宗の本拠も鷺森(さぎのもり)に定まり、雑賀と本願寺のつながりはいよいよ深まっていった。

 

 天正13年(1585)にイエズス会宣教師のフロイスが総長へ発信した報告書に「雑賀の住民は言わば富裕な農夫」と記し、「軍事では海陸共に根来(ねごろ/根来寺の僧兵・衆徒)に劣らず、戦場での武勇によって日本で大いに有名になった」と紹介しているが、海陸における軍事力には経済力の裏付けが不可欠。雑賀衆の場合、それはまず小雑賀をはじめとする11ヶ村による舟運の収入だったのだろう。当時の海面は今よりも高く、小雑賀は湾の入り口近くにあった。南には当時隆盛を極め最盛期には160名の僧が居住したという紀三井寺(きみいでら)があり、入り海の浜に接していた。

 

 開拓田四十九町(640石前後)を寺領としていたというから(『紀伊続風土記(きいしょくふどき)』)、その年収は現代の価値で3000万円弱。さらに寄進や祈祷料、それらを用いた金融業、参拝者の宿坊などでも利益をあげていただろう。その経済拠点・紀三井寺と紀ノ川~大坂方面を結ぶ水上流通の担い手が、雑賀衆だった。この運漕力はさらに発展し、遠く薩摩(さつま)との交易ルートを開き、その上に中国大陸の明(みん)国まで延びていった。海外交易は莫大な利益を生んだのである。

 

 小雑賀以下の11ヶ村は海際で山も迫っていたため農業には適さなかったが、和歌川・紀ノ川をさかのぼった内陸はふたつの河川によって肥沃な土地となり、そこに属する宮郷(みやごう)・中郷(なかごう)・南郷(なんごう)は農業生産にも恵まれていた。前述のようにフロイスが雑賀の人々を「富裕な農夫」と形容したのは、小雑賀と周辺10ヶ村、北の十ヶ郷(じゅっかごう)とともに「雑賀衆」の構成要素となっていたこの三ヶ郷を念頭に置いてのことだったろう。この五ヶ郷が俗に「雑賀五緘(さいかごからみ)」と称される由縁だ。舟運と農業、このふたつが雑賀衆の軍事力を支える大きな柱だったことは間違いない。

 

 他に製塩業も雑賀の産業に含まれていたらしいが、誰に頼るでもないこれらの収益を、周囲の敵と対抗すべく彼らは軍事に回した。大規模な合戦が無い紀伊国でなく他国を軍事的な出稼ぎ場所とする新たな収益モデルを築いたのだ。逆に他地域から見れば金次第で手配できる便利な戦力となる。こうして雑賀衆は「傭兵集団」としての性格を備えていった。

 

 さて、雑賀の五緘はそれぞれが地域的コミュニティを形作っており、各緘のリーダーが代表として合議し雑賀衆の自治にあたっていた。この自治自決の仕組みこそが雑賀衆の盛況ぶりの源泉だったのだろう。十ヶ郷のリーダー・鈴木(すずき)氏からは鈴木孫市(まごいち)、一般に「雑賀孫一」として知られる人物が出ており、雑賀郷の土橋(つちばし)氏も後に明智光秀(あけちみつひで)と協調するなど中央の政治局面に関わる足跡を残している。半面、突出したリーダーの不在は反目や分裂を生みやすい。水争い、土地争い、主導権争いが反目を呼んで抜き差しならぬ内部抗争に結びつくこともあった。

 

 織田信長(おだのぶなが)との戦いについては後に述べるが、そこでも深刻な対立が起こっている。これが雑賀衆のもつ体質的な弱点であり、天正10年には信長と結んだ孫市によって土橋守もり重しげが殺され、直後の本能寺の変で追放されるというドタバタ劇も起こっている。

 

監修・文 橋場日明

歴史人2023年3月号「戦国レジェンド」より

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