激戦!! 戦国の中国地方を争った熾烈なライバル関係<毛利元就vs陶晴賢>
戦国レジェンド
戦国時代にはさまざまなライバル関係があった。そのひとつ。数々の武将が入り乱れ、激戦地となった戦国の中国地方にあったライバル関係をここでは紹介する。
■大内・尼子・陶・毛利複雑に入り組んだ権力構造

毛利元就と陶晴賢の最終決戦地となった厳島。
中国地方の西から北九州にかけて7カ国の守護であった大内氏は、地の利を得て明(みん)や朝鮮との貿易を一手に握り、豊かな経済力を持っていた。室町・足利政権や朝廷からの信頼も厚く、中興の祖とされる大内義興(おおうちよしおき)の時代には「山口は西の京都」といわれるほどの文化都市を形成していた。
そんな大内氏に仕えた陶隆房(すえたかふさ/後の晴賢/はるかた)は、義興とその嫡男・義隆(よしたか)の下で重臣となっていく。さらに中国地方には大内氏と並ぶ大国として出雲・尼子(あまご)氏があった。
一方、毛利氏は祖先が鎌倉幕府の政所別当(まんどころべっとう)・大江広元(おおえのひろもと)であり、南北朝時代に子孫が安芸国吉田荘に移って安芸毛利氏となったものの、弱小豪族・国人のひとりであった。大内氏の配下にあったが、隣接する出雲・尼子氏が脅威となっていた。そうした時に毛利家の家督を相続した元就(もとなり)は、一族・庶子、家臣としての国衆を従属させることに成功し、安芸国の盟主的な存在になる。
天文9年(1540)、居城・吉田郡山(よしだこおりやま)城が尼子軍によって攻められた時に、元就は大内氏に援軍要請した。大内家では「たかが毛利のためなどに」という自重論が大勢を占めた中でただひとり、晴賢のみが「大内家に服属する毛利を救わねば名分が立たない。救援すべき」と主張し、自ら陣頭に立って戦い、尼子勢を破った。晴賢の名はこの一戦で「名将」として内外に知られた。
■大内打倒に協力した晴賢と元就がやがて対立し…
晴賢は眉目秀麗(びもくしゅうれい)。武門の名家という家柄もあって、大内家の重臣として義興亡き後の後継者・義隆を支えていく。だが、主従にすきま風が吹くようになる。義隆が新参者・相良武任(さがらたけとう)を重用し始め、内政まで任せるようになった。これには晴賢ばかりか他の重臣たちも反発し、結果として晴賢は大内家を見限り下剋上に踏み切る。天文20年8月、挙兵した晴賢は義隆を自刃させると、主家簒奪(さんだつ)を計ることなく、豊後(ぶんご)・大友宗麟(おおともそうりん)の弟で義隆の甥でもあった晴英(はるひで/大内義長/おおうちよしなが)を後継者とした。
この大内家の内訌(ないこう)に尼子氏が動いた。晴賢は、尼子対策として下剋上を支持して協力した元就に安芸・佐東郡を預けた。一方で晴賢は弱小国人上がりの元就を見下してもいた。この時点で元就は、謀略を駆使して安芸・備後をまとめ上げている。晴賢と元就の意識のズレが、お互いを警戒するようになり、次第にライバル同士は対決に追い込まれていく。
晴賢を得意の謀略の罠に嵌(は)めようとする元就は、戦力差(大内軍を率いる晴賢は大軍)を考慮して、決戦の場所として大軍が自由に行動しにくい厳島(いつくしま)を選んだ。弘治元年(1555)春、元就は厳島を占拠し、神社北側にある宮尾(みやお)城に600を入れ守備強化を図った。厳島は広島湾の南西に浮かぶ東西4㎞、南北10㎞、周囲28㎞余りの長方形をした小島である。標高535mの弥山(みせん)が聳(そび)え、本土との間には4㎞の大野瀬戸(おおのせと)が横たわる。さらに元就は重臣を晴賢に寝返らせるふりをさせた。
9月21日、晴賢は2万の大軍を500艘(そう)の船で厳島に向かわせ、22日に上陸させた。晴賢は宮尾城が見渡せる塔(とう)の岡(おか)に本陣を敷き、鉄砲を撃ちかけた。元就は村上水軍(むらかみすいぐん)を味方に付けていた。
30日、海上は嵐になった。元就はこれを「天祐(てんゆう)」とした。暴風雨の中を厳島の対岸から出陣した毛利勢は上陸すると、自らが指揮する第1隊3000が海岸線から山道を登り背後から晴賢本陣に奇襲をかけた。三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ)率いる第2隊1500は、神社の大鳥居付近に上陸し奇襲攻撃に慌ててくだってくるはずの晴賢軍を待ち構えた(あたかも後の川中島合戦で武田軍が取った啄木鳥/きつつき/作戦そのものである)。
10月1日、元就による早朝の奇襲攻撃に、嵐であることから油断していた晴賢と2万の将兵は完全に虚を突かれた。晴賢の水軍は村上水軍に殲滅(せんめつ)された。戦線立て直しを計ろうとしても、晴賢には逃亡する時間はない。何とか戦場から脱した晴賢は、逃げ切れないと悟り厳島東海岸の青海苔浦(あおのりうら)で自刃(じじん)した。この戦いは、毛利氏の中国支配の第一歩となった。
監修・文 江宮隆之