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戦国関東の覇権を争った古河公方の城・古河城【茨城県古河市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第31回


戦国時代に関東の覇権争いの中心になった、茨城県を代表する巨大な城・古河城。今回はこの古河公方の居城となったこの城を紹介する。


 

■関東有数の巨大な城郭

 

本丸の石碑。「御三階櫓」もあった本丸は、現在、渡良瀬川の河川敷となり、完全に消滅している。

 

 古河城(こがじょう)は、茨城県古河市に所在する平城である。現在の所在地としては茨城県であるが、実は、かつて下総国に属していた。下総国は、現在ではほとんどが千葉県になっている。

 

 ちなみに、茨城県のほとんどは、かつての常陸国である。古河城は、茨城県に属していながらも、かつて下総国に属していたことにより、歴史的には千葉県との関わりのほうが強い。

 

 古河城が築かれているのは、渡良瀬川の東岸の立崎とよばれた半島状の台地である。周囲は沼地となっており、天然の堀となっていた渡良瀬川(わたらせがわ)とともに、要害を形成していた。

 

 この渡良瀬川は、上流では主に栃木県・群馬県の県境近辺を通流し、かつては太日川(今の江戸川)と称し、江戸湾に注いでいた。古河は北関東と南関東を結ぶ水上交通の拠点として繁栄していたのである。

 

 ただ、河川に面して築かれるという立地から、水害の被害とは無関係ではいられなかった。そのため、近代になると治水が重視されるようになり、渡良瀬川が改修されると、城域の一部も渡瀬川の河川敷となり、消滅してしまったのである。

 

 古河城は、 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、源頼朝の近臣として知られる下河辺行平(しもこうべゆきひら)が築いた城館に始まるという。下河辺氏は、もともと源頼政(みなもとのよりまさ)に従っていたが、源頼政は反平家の先鋒となっていた後白河天皇の皇子・以仁王(もちひとおう)に呼応して挙兵した末、敗死してしまう。このとき下河辺氏の従者が首級を古河に持ち帰って葬り、頼政神社として祀ったと伝わる。この場所は頼政曲輪とよばれたが、近代の河川改修で消滅したため、現在の場所に遷座されている。ちなみに、遷座されているのは、観音寺曲輪の土塁の上である。

 

かつての観音寺曲輪の土塁上に遷座されている頼政神社。

 

 古河城が歴史の表舞台に登場するのは、戦国時代からである。室町時代に、幕府は鎌倉府をおき、鎌倉公方とその補佐役である関東管領に関東を支配させていた。しかし、鎌倉公方は幕府からの自立を図るようになり、幕府に通じる関東管領とも対立するようになった。そして、享徳3年(1455)、鎌倉公方・足利成氏(あしかがしげうじ)は幕府に対し、兵を挙げたのである。これを享徳の乱という。

 

足利成氏
初代の古河公方。関東管領・上杉氏と対立し、争った。(東京都立中央図書館蔵)

 

 鎌倉を失った足利成氏は、古河に逃れて古河公方と称し、幕府からの支援を受けた関東管領上杉氏と争った。このとき、古河公方の居城となったのが古河城で、公方の居所になったことから古河御所ともよばれている。このころの古河城は、江戸時代の古河城の本丸あたり、現在では河川敷になっている場所であったとみられる。

 

 その後、古河公方は5130年間にわたり、関東に君臨した。しかし、5代目の足利義氏(あしかがよしうじ)は、北条氏康(ほうじょううじやす)の甥にあたり、古河公方足利氏は、北条氏の傀儡となっていく。そのため、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、古河公方足利氏の権威も失墜し、古河城を失うこととなった。

 

 小田原攻めののち、関東は徳川家康の領国となり、古河城には小笠原秀政が入城する。小笠原秀政は、信濃守護小笠原氏の末裔で、正室の登久姫(とくひめ)は、家康の子信康の娘だった。

 

 この小笠原氏の時代に古河城は、江戸城の北方を守る要衝として修復・拡張された。こうして古河城は、南北約1.8kmに曲輪が連なる巨城として完成する。天守は存在しなかったものの、本丸には三重四階の「御三階櫓」があがっており、これが実質的な天守となっていた。

 

市街地のなかに、竹林と化した桜町曲輪の北側土塁が残されている。

 

 江戸時代の古河城は、古河藩の藩庁であったのはもちろん、将軍の宿城ともなっている。実際、将軍が日光東照宮に参詣する際には、岩槻城、古河城、宇都宮城に宿泊してから日光に向かっているのである。

 

 それほどまでに重要な城だったから、江戸時代に城主となったのは、いずれも譜代大名だった。しかも、土井利勝や堀田正俊のように大老になった城主もおり、老中になっていることも多い。

 

 明治維新後、城は破却され、建物も解体された。それだけでなく、渡良瀬川の河川改修工事のため、城跡の大半は河川敷と堤防になってしまった。そのため、渡良瀬川の堤防の上に本丸跡の石碑が建てられている。そのほかの城域も、宅地となっているため、曲輪の痕跡は残らない。しかし、幸いにも削平を免れた土塁の一部が点在し、当時の面影を伝える貴重な歴史遺産となっている。

 

奥の高層マンションが古河駅付近。手前の森が古河歴史博物館となっている諏訪曲輪のあたり。

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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