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忍者のルーツは「中国」にあった!? 服部半蔵の「驚くべき血筋」とは

日本史あやしい話20


家康最大の危機・「伊賀越え」最大の功労者と言われる服部半蔵(正成)。本当のところはどうだったのだろうか? 本記事ではその実態を振り返りつつ、後半では服部氏のルーツ、さらには忍者のルーツにまつわる伝承を紹介する。


 

■家康の長男・信康の切腹で涙を流した情に厚い男

 

服部半蔵の墓(西念寺)

 服部半蔵とは、言うまでもなく、家康の「伊賀越え」に尽力したことで知られる御仁である。名は正成。父・保長が初代・服部半蔵で、2代目である正成はもとより、代々同じ通称名を受け継いでいるから、何とも紛らわしい。

 

 もともと父は、伊賀において忍びの棟梁だったと見られているが、どういう事情があったのか定かではないものの、故あって三河へと移り住んだという。三河の前に、しばし第12代将軍・足利義晴に仕えたこともあったが、その後、家康の祖父・松平清康の家臣となったとか。

 

 その2代目である正成は、忍びであった父とは違って、武士として生涯を貫いたようである。初陣は16歳。以降、姉川の戦い(1570年)や三方ヶ原の戦い(1572年)などに参戦して武功を挙げた。

 

 特に三方ヶ原の戦いでの戦功が華々しく、家康から槍を賜ったとも。槍の使い手として名を成したところから、俗に「鬼の半蔵」とまで称えられたという。さらには、「徳川十六神将」の一人にまで数えられたというあたりが、よく知られるところだろう。

 

 ところが、思いのほか人情味溢れる御仁だったようで、家康の長男・信康が切腹を命じられた際には、その介錯を仰せつかったものの、「三代相恩の主に刃は向けられぬ」と涙をこぼし、ついに刀を振り下ろすことができなかったとか。結局、検使役の天方通綱が代わって介錯を務めたとの逸話が伝わっている。

 

 その後、信康を思う余り、彼のために自身で寺を建立した。それが四ツ谷(東京都新宿区)にある西念寺(前身は清水谷の安養院)だったという。境内に、「松平信康公供養碑」と共に「服部半蔵正成公墓」があるというのが印象的である。

 

■「小牧・長久手の戦い」で活躍し認められるも……

 

 その後は、伊賀衆や甲賀衆を率いる立場に出世。小牧・長久手の戦い(1584年)では、鉄砲隊を率いて秀吉軍を撃退している。その功績によって8000石を与えられ、伊賀同心200人を指揮下に置いたばかりか、江戸城麹町口門外に組屋敷を構え、城の警護にあたったと言われている。ただし、残念なことに、1596年、経緯は不明ながらも、どうやら、配下に暗殺されたようである(法号・西念)。

 

 その跡を継いだのが正成の長男・正就であるが、これが少々問題児で、配下の伊賀同心を冷遇するなど人徳がなかった。部下にも見放された挙句、蟄居閉門の憂き目に遭ったというから、父・正成も、草葉の陰で泣いていたことだろう。

 

 4代目・正重の代で改易。以降は、家康の弟・桑名藩主・松平定勝に助けられ、知行2000石で仕えて、「服部半蔵」の名を受け継ぐことは叶えられている。幕末まで桑名藩家老として仕え続けたというのも、初代〜2代目の名声あってのことかもしれない。

 

 ちなみに、3代目・正就が、汚名返上とばかりに大坂夏の陣(1615年)に参戦したこともあったが、そのまま消息を絶ってしまったとのことで、汚名返上とはならなかった。伊賀や新潟へと落ち延びて、庄屋になったとも言い伝えられているようだ。

 

■服部半蔵(正成)は、じつは「伊賀越え」でさほど活躍していない?

 

 ともあれ、ここからは、2代目・正成の活躍の舞台となった「伊賀越え」について話を進めていきたい。事件の発端は、言うまでもなく、信長が本能寺の変で(おそらく)自害してしまったことによる。

 

 信長に刃を向けた明智光秀が本懐を遂げた後、その同盟者であった家康をも亡きものにしようと探索を続けていたことは、容易に察せられるところ。「徳川殿を討ち取るものには1万石」とのお触れまで出したというから、恩賞目当ての落ち武者狩りの輩たちが、そこかしこで待ち受けていることは確かであった。対して、家康の供回りは、わずか30数名。到底、生きて岡崎に帰れる見込みなどなかったのだ。

 

 しかし、泣き言を言っている暇はなかった。わずかな望みをかけて急遽選んだルートが、伊賀街道をたどるルートであった。途上の伊賀の地といえば、第二次伊賀の乱の舞台となったところで、信長に破れた後、降伏しなかったものは老若、俗在家を問わず、ことごとく首を刎ねられた。その数、日に300とも500とも。またもやの大虐殺である。そのため、伊賀衆は織田家に対して恨み骨髄で、同盟者の家康にも敵愾心をむき出しにしていたと語られることが多いようだ。

 

 ただし、乱以前のことであるが、信長の侵攻が逃れられないものとして、伊賀衆から家康に救いの手が差し伸べられていたことを指摘する向きもある。そればかりか、恭順の意志まで伝えていたとも。家康があえて伊賀越えを選んだのは、伊賀の人々が必ずしも敵愾心むき出しではなく、「危害を加えられることはない」と踏んでいたからとも考えられるのだ。

 

 ちなみに、本能寺の変(1582年)の第一報を家康陣営にもたらしたのは、服部党の服部平大夫正尚(徳川秀忠の母・西郷局の継父)だったと言われる。「伊賀越え」の際に、自分の蓑笠を家康に差し出して窮地を救ったところから、蓑笠之助と呼ばれたとも。

 

 一般的には、家康の「伊賀越え」を助けたのは服部半蔵正成と言われることが多いが、実際に伊賀国人との折衝役を務めたのは、この服部正尚だったとか。服部半蔵正成は、万が一のため、家康一行に密かに同行していたというのが実情のようである。正成にとっては、すでに縁が薄れてしまった伊賀衆との折衝役は、少々荷が重かったと見なすべきかもしれない。

 

 さて、ここでもう一つ目を向けておきたいのが、服部氏のルーツである。

 

 

次のページ■服部氏の開祖ともつながる「史上最強の武将」とは?

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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