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【ランキング】歴史の偉人で選ぶ理想の上司!歴史好きが選んだ「仕えるなら、この武将のもとで」は?

歴史人ランキング


「優れたトップがいるところで働きたい」ーー組織で働く多くの人はそんな気持ちを抱くものです。今回の雑誌『歴史人』のアンケートは、「戦国時代の武将で、仕えるなら、どの武将ですか?」について集計しました。第5位から第1位までを発表します。 <総票:398票  男性:女性=8:2>


愛知県岡崎市の徳川家康公の像。日本最大級の騎馬像で、家康公が松平から徳川に改姓した25歳当時の姿といわれています。天下泰平の世の礎を築いた武将は、何位だったのか?

 

第5位 「上杉謙信」 投票数:50  

 

 第5位は50票を獲得した上杉謙信(うえすぎ・けんしん)。第6位には豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)と、伊達政宗(だて・まさむね)が同数の30票でしたが、それを20票も上回っています。

 

 越後守護代の長尾為景(ながお・ためかげ)の継室の子として、享禄3年(1530)に生まれた謙信。将来は僧侶となるはずが、病弱な兄・晴景(はるかげ)に代わり家督を継ぎ、越後国の大名となります。

 

 「日本無双」「毘沙門天の化身」などと呼ばれ、戦の強さは戦国屈指。5度にわたった、武田信玄との「川中島の戦い」はあまりに有名です。農兵を大量に動員し組織化したことも強さの秘密でした。また、衣料の原料である青苧(あおそ)を栽培し、全国に広め莫大な財源を確保するなど経済通でした。そして和歌にも通じ、『源氏物語』を好むなど教養人としての一面もありました。

 

 「謙信に仕えたい」と票を投じた人からは、「義を重んじ、正義を貫く誠実さを持ち、同時に軍神と謳われたほどの戦略家でもあった武将。同じ仕えるなら、魅力的な人のもとがいいと感じます」「武田信玄に塩を送ることを禁じた今川氏真(いまがわ・うじざね)を『卑怯だ』と非難。そして信玄の領地に塩を送った話はあまりに有名です。”義の人”が大将だと、士気も上がり、納得して仕事が出来そう」などと、人格者として尊敬する声が多く寄せられました。

 

 

第4位 「武田信玄」 投票数:56

 

 第4位は、上杉謙信のライバルだった武田信玄(たけだ・しんげん)で、謙信を6票上回る56票を獲得。信玄は、源義光(みなもと・よしみつ)を始祖とする甲斐源氏の子孫です。父・信虎(のぶとら)を追放しながらも家臣の支持を得て、武田宗家の19代目となりました。

 

 甲斐国の統治、政治体制を強化し、隣国・信濃にも進出。「甲斐の虎」と呼ばれた信玄は、無類のリーダーシップを発揮し、信玄率いる武田軍は当時最強といわれました。

 

 軍事面では、後に「甲州流軍学」と呼ばれる兵法を確立。また、相模の北条氏康(ほうじょう・うじやす)、駿河の今川義元(いまがわ・よしもと)と三国同盟を結ぶなど外交戦略にも長けていました。また、家法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」の制定、太閤検地に先駆ける「信玄升」を使った度量衡の統一、金山開発によって潤沢な軍資金を調達するなど、内政や経済面にも優れていました。

 

 こうした万能ぶりを評価してか、「全てにおいて偉大で尊敬できる」というコメントが多くありました。また部下の扱いが上手いと考える人たちも、信玄に1票を入れた様子。「人材登用と人材配置の大切さを説いた『人は城、人は石垣、人は堀』という信玄の言葉が、信玄の考え方を表しています。家臣=部下を大切にする人だと思う。堀にでも石垣にでもなりたい!」と熱い意見がありました。

 

 

第3位 「織田信長」 投票数:58 票 

 

  第3位は、第4位の武田信玄をわずか2票上回る58票を獲得した織田信長(おだ・のぶなが)。カリスマ武将として圧倒的に人気が高い、戦国を代表する武将です。「天下布武(てんかふぶ)」を掲げ、天下統一目前まで迫ったことはご存じの通りです。

 

 信長は、尾張の織田信秀(のぶひで)の嫡男として誕生。若い頃は、「尾張の大うつけ」と呼ばれましたが、家督を継いだ後は、尾張一国を統一。桶狭間の戦いで、今川義元の大群を撃破し、一躍武名をあげます。

 

 そして足利義昭(あしかが・よしあき)を擁して上洛を開始。天下布武を標榜し、勢力を拡大して行きます。しかし、それを快く思わなかった義昭と対立し、比叡山焼き討ちを経て、最終的に室町幕府を滅亡に追い込みました。危機を脱した信長は、長篠の戦いで徳川家康と組んで武田勢に勝利。さらに畿内平定を完了し甲斐・武田氏を完全に滅ぼしました。

 

 しかし、家臣・明智光秀(あけち・みつひで)に本能寺で襲撃され、信長は寺に火を放ち自刃。天下統一の事業は頓挫することになりました。

 

 安土城の築城を始め、斬新な発想で知られる信長ですが、集権的な封建体制を築くためにも、画期的な政策を次々と導入しています。土地と農民を把握するために各地で検地を行います。また関所の撤廃、楽市・楽座の設置・廃止など商品流通権を拡大する経済政策を進めました。

 

 信長のもとで家臣たちは、家柄や仕えていた年数に関係なく、働き次第で誰でも出世できましたが、その反面、役に立たない、怠惰であると判断されると容赦なく処罰されました。

 

 絶対君主だった信長に、現代人が仕えたいと考えた理由は何だったのでしょうか。

 

 寄せられたコメントで多く見られるのは、「厳しい時代のトップには、革命者が必要だと思う」というもの。「天下を本気で取りに行く目標を持っている人にこそ、仕えたいです」「仕えるのは大変だと思うけれど、天下統一を一緒に味わいたい」「先進的な思考の持ち主。スピード感溢れる実行力で、ついていきたいと思うリーダーです」などの意見が寄せられました。

 

 「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ」「理想を持ち、信念に生きよ。理想や信念を見失った者は、戦う前から負けている……」などと語った信長。その言葉通りの生き方に惹かれる人が多くいるようです。

 

 

第2位 「真田幸村 投票数:60

 

 58票で3位となった信長に2票差の60票で、2位となったのは真田幸村(さなだ・ゆきむら)。「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評され、勇敢で華々しい最期で高い人気を誇る武将です。

 

 幸村は、信濃の豪族で武田家の家臣だった真田昌幸(まさゆき)の次男として誕生しました。武田氏に仕えるまでの経緯ははっきりわかっていませんが、一族の中の数名が「武田二十四将」に選ばれており、武勇に秀でた一族だったようです。

 

 織田信長が台頭してくるなか、武田信玄が病死。子の勝頼が家督を継いだものの、武田家は滅亡してしまいます。真田家の後継者が命を落とすなか、家督を継いだ昌幸は信長の配下に入りますが、信長も逝去。時代の流れを読み、主君を乗り換えていった昌幸ですが、信濃の領地を守ることは出来ませんでした。

 

 幸村は上杉家、そして豊臣家の人質として過ごしました。秀吉に気に入られた幸村は家臣として扱われ、やがて小田原攻めで武勲を挙げるなど豊臣家のなかで出世していきました。

 

 秀吉が病死した後、徳川家康と豊臣家の重臣・石田三成(いしだ・みつなり)が対立。有名な関ヶ原の戦いが勃発します。父・昌幸とともに三成率いる西軍についた幸村ですが、結局、西軍が負け、九度山へ流罪となり10年以上に及ぶ蟄居生活に入ることになりました。

 

 幸村が武将として復活するのは、徳川家と対立していた豊臣家の要請を受けてのこと。慶長19年(1614)の有名な「大坂冬の陣」で、真田丸を築き、圧倒的に不利な状況を覆し徳川家に勝利します。しかし、「大坂夏の陣」が起き、幸村は一時は家康の本陣にまで攻め込む奮闘ぶりをみせますが、戦死。47歳の生涯を終えました。

 

 幸村を選んだ人は、こうした戦いぶりや豊臣家への忠臣ぶりを評価しているようです。「知恵と工夫で、苦難を乗り越える生き様がすごいと思う」「こういう真っ直ぐで、信念を貫く強靭さを持つ人のもとなら、自分自身も熱い気持ちで物事に挑めそうです」などのコメントが目立ちました。

 

 

第1位 「徳川家康」 投票数:74 

 

 そして織田信長や真田幸村を抑えて、第1位に選ばれたのは74票を獲得した徳川家康です。不遇、雌伏のときを経て戦国乱世に終止符を打ち、260年余り続く徳川幕府の初代将軍となります。信長や秀吉とともに三英傑と呼ばれました。

 

 三河国に生まれた家康は、幼い頃を今川義元の人質として過ごします。義元が信長に討たれた後、三河国・岡崎城で自立。その後、信玄に攻められ大敗を喫したものの、子の勝頼に大勝。そして信長亡き後は、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国を支配し、領国経営を軌道に乗せます。

 

 家康は台頭してきた秀吉に臣従し、豊臣政権下では五大老のひとりとなり、「律儀な大府(だいふ)」と呼ばれたそうです。しかし秀吉が亡くなり、石田三成と対立することになり、関ヶ原の戦いへと向かいます。戦いは家康の東軍が勝利し、江戸幕府を開きました。

 

 戦国騒乱に終止符を打ち、その旗印である「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)=戦乱のない平和で豊かな世の中」を目指した家康。戦いが無くなり、新田開発なども進み、人々が食べていける時代を築いていくのです。

 

 家康と家臣たちとの関係はどうだったのでしょうか。

 

 「鉄の絆」などと家康と徳川家臣団との関係は表現されますが、その家臣団は三河武士を中核としつつ他の先進戦国大名の家臣たちもいました。さらに家康は、自分に敵対した者も赦して家臣に加えています。戦いが中心のときは武功派家臣が中心となり、戦いがひと段落してからは内政担当の大臣が台頭。江戸に移ってからは、土木水利に堪能な家臣が抜擢されたりしています。そして駿府城に移った後は、政治・文化・経済の面に詳しいブレーンたちに支えられ、大御所政治を行いました。

 

 家康は家臣の能力を引き出す手腕に優れ、また能力の高い者を重視し、適材適所の人材を登用するリーダーだったようです。

 

 「仕えるならば、家康のもとで」と票を投じた人たちも、そうした面に尊敬の念を抱いているようです。「決して派手ではないが、地に足がついている感じ。安心して働けそうです」「『己を責めても人を責めるな』『諌めてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある』など家康が残した名言からも、家康が部下を大切にする人だったと感じられます」。また長きにわたる天下泰平の世の礎を築いたことも、家康を選んだ大きな理由のようです。「江戸幕府を創生し、そして長く続く国、すなわち会社の基礎を確立した人物。リーダーとして、トップに立つ人間として優れていることは、歴史で証明されています」といったコメントが多くありました。

 

(アンケート…メールとハガキで集計。総票数:398票)

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