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【ランキング】徳川家康の周辺で気になる人物は?


大河ドラマで、人間関係が織りなすドラマの面白さにも注目が集まっている徳川家康。今回のアンケートは、「家康の周辺で気になる人物は?」について集計しました。第5位から第1位までを発表します。 <総票:456票  男性:女性=8:2>


赤いマント姿が印象的な、JR岐阜駅前にある織田信長像。家康との関係は果たして、どうだったのか……。

 

第5位 「石川数正」 投票数:50 票 

 

 第5位は、50票を獲得した「石川数正(いしかわ・かずまさ)」。豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)や本多忠勝(ほんだ・ただかつ)、瀬名(せな)らを数票差、上回りました。桶狭間の戦いの直後、徳川家康(とくがわ・いえやす)の妻子奪還に活躍した人物です。

 

 大河ドラマにも描かれていた通り、家康は長年、今川家で暮らしました。松平氏の家老を務めた家に生まれた石川数正は、駿府に人質として送られた幼少の頃の家康(当時は竹千代)に同行。いわば家康の家臣の筆頭格でした。桶狭間の戦いで今川義元(いまがわ・よしもと)が敗れたことで三河国の平定に乗り出します。

 

 その一方で、家康の嫡子・信康(のぶやす)と正室・築山殿(つきやまどの)は、今川家に人質として留め置かれていました。ここで数正は、今川氏真(いまがわ・うじざね)と交渉し、駿府に囚われていた二人を救出し、岡崎城へと取り返しました。その後も数正は、家康が豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いでも活躍するなど、見事な忠臣ぶりでした。

 

 そんな高い忠誠心溢れる数正が、城代を務めていた岡崎城を出奔。秀吉の元へ向かい家臣となるのですから、人間関係は分からないものです。「外交手腕を買われて秀吉に誘われたから……」など、家康を裏切った理由には諸説ありますが、真相はいまだ分かりません。

 

 石川数正を「気になる人物」として挙げた人たちからは、「家康の片腕として辣腕を振るうなど存在感は抜群。なのに豊臣家に出奔! その事由について様々な憶測が飛び交っている、実に謎多き人物。その本心はいかに……気になる人物No.1です」というコメントが多数。行動の意外性に多くの票が集まりました。

 

 

第4位 「服部半蔵」 投票数:52

 

 5位の石川数正をわずか2票差、52票で第4位となったのは「服部半蔵(はっとり・はんぞう)」。徳川家の諜報組織(忍者)の中心人物です。

 

 伊賀国・服部郷を本拠とした服部家は、御三家の一家。忍びの家の名門で、清康(きよやす)から家康まで松平(徳川)家三代に仕えました。家康に重用された服部半蔵は数十人の忍者集団の頭として、家康(当時は松平元康)の三河・上ノ郷城攻めのときに奮闘し手柄を立てました。

 

 本能寺の変が起き、家康が堺から三河に戻る際には、「伊賀越え」に同行。敵中突破を果たし、家康を無事、三河に帰国させました。その後も小田原征伐など幾つもの合戦に参加した半蔵は、徳川家の旗本として8千石を賜わります。幕府創世記に功績を挙げた「徳川十六神将」の一人にも数えられるなど、武将としても活躍しました。

 

 その後、江戸・麹町に屋敷を構えた半蔵は、江戸城の裏門警備に当たります。そのため、屋敷に近い城門の一つは「半蔵門」と呼ばれるようになりました。慶長元年(1596)年、半蔵は意外にも配下の暗殺によって命を落としたといわれています。

 

 服部半蔵が気になるという人たちから寄せられたコメントの多くは、「服部半蔵が戦国時代に果たした役割を詳しく知りたい」「半蔵は武士なのか、それとも忍者なのか気になります」「忍者漫画でのイメージが強いが、実際はどうだったのか知りたい」「映画やドラマで見る服部半蔵の姿は、そのまま忍者像となっています。歴史に脚色された部分も大きいような気がします」という内容。現実の服部半蔵がどうだったのかに注目が集まっています。

 

 

第3位 「武田信玄」 投票数:54 票 

 

  服部半蔵を2票上回る54票で第3位となったのは武田信玄(たけだ・しんげん)。戦国時代、最強の軍団と呼ばれた武田軍を率いた武将・信玄は、「甲斐虎」と呼ばれました。

 

 信玄は父である武田信虎(たけだ・のぶとら)を、娘婿だった駿河の今川義元(いまがわ・よしもと)のもとに追放し、家督を相続。その理由には諸説あるようですが、いずれにせよ信虎に代わるリーダーが求められていたようです。

 

 信玄は信濃侵攻で、戦の難しさを経験をします。その後、信玄は今川氏真、北条氏康(ほうじょう・うじやす)と婚姻関係を結び、2国の大名を味方に付け勢力を強めていくのです。この「三国同盟」は、永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」で、織田信長に今川義元が討たれるまで続きました。

 

 また信玄といえば、「越後の虎」と呼ばれた上杉謙信(うえすぎ・けんしん)との間での「川中島の戦い」が有名です。どちらが勝ったともいえない戦は、天文22年(1553)〜永禄7年(1564)の12年間に5度にわたって繰り広げられました。徳川家康が今川氏から独立したのが永禄4年(1561)。家康にとって、隣国・信濃の信玄は脅威となる存在だったようです。

 

 信玄と家康が激突したのは、元亀3年(1573)の「三方ヶ原の戦い」です。この戦で信玄は、家康と信長の連合軍に圧勝しました。しかし、この戦の後、信玄は持病が悪化し、甲斐国に戻ることなく53歳の生涯を終えました。

 

 今回のアンケートで信玄に票を投じた人の多くは、「戦の神のような人生を送った信玄の存在は、家康に取って大きかったはず」と考えていたようです。「家康は信玄の死を惜しみ、また、『信玄を目標にしていた』と聞いた。まさに信玄こそ、家康の最大のライバルだったと思う」「信玄が病死しなかったら、江戸幕府は無かったのでは……と考えてしまう。それほどに政治と軍事に長けた武将ではないだろうか」といったコメントが寄せられました。

 

 

第2位 「今川義元 投票数:58

 

 第2位には、武田信玄より4票多い58票を獲得した「今川義元」が選ばれました。駿河国と遠江(とおとうみ)国を治めた戦国大名で、「海道一の弓取り」と評された名将です。しかし同時に、桶狭間の戦いで、2万5千の大軍を率いながら、わずか2千の織田信長に敗れた印象が大きい人も多いようです。

 

 今川家は、室町幕府の足利家の一門で、室町・戦国時代の約230年間、駿河に君臨しました。その名門に、義元は今川氏親(いまがわ・うじちか)の三男として、永正16年(1519)に誕生。当初は出家したものの家督争いで勝利し、家督を継ぐことになります。

 

 一方、徳川家康は、三河の岡崎城主・松平広忠(まつだいら・ひろただ)の長男として、天文11年(1542)に生まれます。その頃、尾張の織田家と戦っていた松平氏は、駿河の今川義元に助けを求めます。これに応える代わりに、義元は人質を要求。家康は駿府へ送られることとなり、その途中で家臣・戸田康光(とだ・やすみつ)の裏切りによって、織田信秀(おだ・のぶひで)の人質となった説が有力です。

 

 その後、織田軍を攻めた今川軍は、織田信秀の子である信広(のぶひろ)を生捕りにします。ここで「人質の交換」が行われ、義元は家康(当時は竹千代)を奪取。その結果、家康は8歳から19歳まで足かけ12年間を、義元の駿府で人質として暮らすことになりました。

 

 戦国の雄として絶大な力を持っていた今川義元のもとで元服もし、多感な時期を送った家康。息子・氏真の右腕にしようと家康を教育した義元は、人質という言葉のイメージとは裏腹に、家康を丁重に扱ったといわれています。

 

 これほどまでに関係が深かった徳川家康と今川義元。義元が2位となるのは当然かもしれません。義元に票を投じた人の多くが、「家康が天下を掌握出来た根本要素は、義元に負うことが大きい」と考えているようです。そして「どんな将来を義元は考えていたのか興味がある」「義元が家康に与えた影響が知りたい」などという意見が寄せらています。また、「大河ドラマ『どうする家康』で、義元への関心が高まった」という人も多かったようです。

 

第1位 「織田信長」 投票数:88 

 

 そして第1位に選ばれたのは、家康に因縁が深い義元に30票もの差をつけた「織田信長」。88票を獲得しました。戦国時代を代表するカリスマ武将としてあまりに有名でしょう。

 

 家康が今川家から独立したのが、信長が義元を破った永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」。家康は、義元の子・氏真を見限り、織田側につき、その結果、台頭していきます。今川家から自由になった家康は信長と面会。「桶狭間」の2年後に、信長と軍事同盟「清洲同盟」を結びます。

 

 やがて家康は三河国を統一し、朝廷から従五位下三河守(じゅごいのげみかわのかみ)に叙任され、これを機に松平から徳川に改姓。元亀元年(1570)に浜松に居城を構え、信長を助けます。さらに天正3年(1575)には信長とともに、信玄の子・勝頼(かつより)を破ります。家康の天下取りには信長との協調が重要だったのかもしれません。

 

 家康と信長は、「主従関係だった」「対等だった」など色々に語られます。この二人の武将の関係に注目が集まるのは当然のことかもしれません。

 

 「織田信長が最も気になる」と考える人は皆、「名将二人の本当の関係を知りたい」様子。「信長は、家康をどんな武将だと考えていたのだろう。同じように家康にとっては、どうだったのか……」「家康は、人質時代に信長と出会ったのだろうか?」などと想像を膨らませているようです。「お互い学ぶことも多かったのでは?」「日本統一、そして長きに亘る江戸幕府を開いた家康。歴史を学ぶにつれ、信長という存在があってこそだろうと思える」などのコメントがありました。

 

 

(アンケート…メールとハガキで集計。総票数:456票)

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