大奥をつくった女「春日局」とは?─徳川家康の女性対策のブレーン─
「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第14回】
家康(いえやす)のブレーンで最後に紹介するのは、ごく初期の大奥を仕切ったと伝わる春日局(かすがのつぼね)。家光(いえみつ)の乳母として頭角をあらわし、家康が将軍になると大奥の実権を掌握した。

大奥という女の世界から徳川政権を支えた
特異なブレーンであった春日局。写真は東京都文京区にある像。
男社会であった徳川政権でも、女同士の争いはあった。家康には、多くの側室がいたし、秀忠(ひでただ)の正室・江与の方(お江/ごう)は、嫉妬深い女性とされている。その江与の方が生んだ男子には、竹千代(たけちよ)と国松(くにまつ)の2人があった。竹千代が生まれた時に、お江与の方が「野暮な田舎の女などは息子の乳母には出来ない。是非とも優雅な京女を乳母にしたい」と言い出した。乳母の募集を知って応募したのが斎藤福(さいとうふく/後の春日局)であった。
京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)が面接して採用を決めた、とされるが当然のことながら決定には家康が絡んでいる。なぜなら、お福は本能寺の変で主力(首謀者ともされる)となった明智光秀(あけちみつひで)の甥で家老だった斎藤利三(さいとうとしみつ)の末娘であったからだ。いわば、謀反人の関係者である。
お福の父・斎藤利三は「本能寺の変」の後の山崎合戦(秀吉との戦い)に敗れて近江国堅田(おうみのくにかたた)で捕縛された。そして京都・六条河原で斬首されたが、最後まで本能寺の変は「自分1人の企画」と主張して、黒幕や共犯者などの存在を認めようとせずに死んでいる。
その後、まだ3歳だったお福は母方・稲葉氏の縁を頼って美濃国(みののくに)で成長した。文禄4年(1595)頃に、稲葉正成(いなばまさなり)の後妻となったが、後に離縁されている。その後は、京都で暮らした。こうしたお福が、どうして将軍家の乳母になり得たのか。様々な疑問と共に語られている。中には、明智光秀と家康は「本能寺」の共犯関係にあり、その縁でお福を採用した、という異説まであるほどだ。
最もあり得る説は、お福の母(信長時代の西美濃三人衆の1人・稲葉一鉄の姪)と公家の関係であろう。この公家とは、大臣家の家格を持つ三条西(さんじょうにし)家である。三条西家の当主・公条(きみえだ)の娘が一鉄の妻であり、お福が京都で暮らせたのは、三条西家の支援があった可能性もある。
後の寛永6年(1629)に、家光の乳母になっていたお福が将軍家の名代として京都に上り、「春日局」という称号を受ける時に、三条西家公条の曾孫・実条(さねえだ)の妹、と称して後水尾(ごみずのお)天皇に謁見している。その前の元和6年(1620)正月、家光が正三位・権大納言に叙任したが、その位記・宣旨が届けられた9月に勅使として江戸を訪れたのが、三条西実条である。
つまり家康が、お福を家光の乳母として採用したのは、この大臣家格をもつ三条西家の強い推薦があったから、という説が最も的を射ているように思われる。
乳母になったお福は、秀忠夫妻が弟・国松を後継者に考えているのを知り、駿府の家康に直訴して、家光の後継決定を促した経過もあった。これ以後、お福は徐々に女性たにの政治的勢力を纏め上げ、徳川幕府の女性たちを束ねる立場になっていく。それが後の「大奥」である。家康が見込んだお福は、家光の信頼も厚い春日局として「大奥」に君臨した。春日局は寛永20年(1643)9月、64歳で病死する。